なぜ物語中毒者はageを嫌うのか

なぜか今頃話題になっているageの話ですが、まずは導入というかなんというかそういう感じでREVの日記の記事

いや、自分でも整理できていないのだけど。

 『作品の強度』

を表す言葉がなんか無いかな、という話。


という話。


んーまあ、そもそも「強度」という用語というか術語の示す意味がいまいちよく分らないというのがありはしますね。ずーんとくる感じというかなんというか、批評家の都合に合わせて適当に意味の変わる意味不明なマジックワードというか。まあ、それならばそんなテキトーな用語は使わないのが誠実な態度だとか何とかありはするわけですが、それはそれとして考えてみましょう。


宮台の「意味から強度へ」ではないですが、「強度」というのは「意味」と対比して用いられたりします。論理的というか因果律的な意味合いを超えた説得力とかそういう感じ。大体、因果関係の整合性があったからといって、それがリアリティというかもっともらしさというかそういうのを担保するわけではないんですよね。むしろ、あらゆる事象が因果律的に説明できる作品というのはいかにも作り物っぽいというかとってつけたような感じがしてうそ臭い。いかにも説明臭い言い訳みたいなものです。


しかし、そのようなうそ臭さというかもっともらしさの問題というのは、構造主義的な読み方というか因果律的な筋書きを拾うような読み方では無視されてしまうわけですね。整合性があるからリアルだとか、破綻しているからリアルじゃないとかいう話になってしまう。まあ、そういう読み方で満足するならば、ぶっちゃけ粗筋をネットかどっかから拾ってくるだけで十分なわけです。


それならばということで、作品の筋立てには全然関係のない部分はどういう役割というか効果を持っているのか考えてみましょう。ここまでの議論の流れ的には、リアリティを維持するには因果関係が大事ではあるのだけれど、それが露骨に前面に出てしまうとうそ臭いので、ごまかすというか作り物臭さを薄める必要があるとか、そういう感じっぽい雰囲気です。ただ、そのような「作為を隠蔽する機能」というのが、今回の話題である「強度」とどういう関係があるのかというのはよく分らないというか、いかにも関係なさげ。というのも、「強度」というのは強さや濃密さを連想させる術語ですから、「物語の作り物臭さを薄める機能」を指す用語という感じはしません。


ロラン・バルトという有名なフランスの記号論者がいますけれど、彼は意味のない細部のもつ効果のことを「現実効果」と呼んでいます。さくっと引用してみましょう。



フローベールの晴時計、ミシュレの小さなドアは、最終的に、つぎのこと以外のことは何も告げていないのだ。すなわち、これが現実である、と。だが、そのとき意味されているのは、<<現実>>という範疇なのである(その偶発的な内容ではない)。言いかえれば、指向対象だけをあとに残す、記号内容の欠如そのものが、写実主義の記号表現そのものとなっているのだ。

物語の筋立ての進行に貢献しない表現というのは、粗筋において無意味であるゆえにこそ「現実」そのものを指し示すことになる、と。それならば、無意味な細部は因果関係の作り物臭さをごまかすものである、というよりもむしろ関係は逆なのではないかという話にもなるわけです。つまり、無意味な細部に現実を指し示させるために、その入れ物として因果関係が要請され、無意味な細部を詰め込むために筋立てが準備される。ここまでくると、完全に『悪徳の栄え』とかマルキ・ド・サドの世界ですね。ひたすらに繰り返される無神論哲学とリベルタンの饗宴。『ソドムの百二十日』になると物語の形式すら逸脱していくことになります。そして、このような傾向はサドに特有なものではなくて、百科全書的小説とかいいますけど、セルバンテスの『ドン・キホーテ』やラブレーの『ガルガンチュア』に始まって、フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』、メルヴィルの『モービィ・ディック』、ジョイスの『ユリシーズ』さらにはピンチョンの『重力の虹』にまでいたる近現代の小説のひとつの重要な潮流として存在するわけです。


ここまで確認したところで、ようやくageの話です。というか、エロゲにおける私にとっての最重要機能 -特別に貴きエロゲ-とか何でそんなにアージュが嫌いなのか?とかの話。


エロゲの日常描写はうざいとかなんとかいうことはよくあります。私もつい最近、『聖なるかな』のADVパートがうざいとか書いたばかりです。エロゲー界隈でシナリオ重視とか言っているような人たちは、やけに「必然性」とかいうのが好きですけど、そういう物語至上主義というかあらすじ至上主義みたいな考え方は、先ほど概括した「近代小説的」な考え方とはまったく異なったものです。kaien氏のよくまとまった一節を引きましょう。



 それは結局、パッケージとしての統一感のなさということに尽きると思うんです。例によってぼくは『君望』一作のことしか語れないわけですけれど、とにかくこの作品にはパッケージとしての「余剰」が多すぎる。

 具体的にいえば、茜と遥の二股で終わる結末や、愛美に監禁されて終わる結末はいったい何のためにあるのかということですね。

 この展開は作品の本筋とはまったく関係ないわけで、削っても何の問題もない。これはもう、ユーザーをいやな気分にさせるためだけにあるとしか思えない。

 べつにきれいごとの純愛ものにしろといっているわけじゃなくて、作品全体を見たときにそのエピソードを組み込む必然性があるならば、どんな展開を用いてもらってもかまわない。でも、ぼくにはその必然性は感じられないですね。



 だから、ぼくはどんなにきれい事の絵空事といわれようと、鍵とか型月とかのほうが好き。一切のきれい事抜きで凄惨な物語をつむぎ出しながらさいごには美しい結末へと導く『SWAN SONG』はもっと好き。

なんというか、ageの人はそういう「美しさ」が嫌いだからああいう風に作品を作るんだろうなぁ、という気はするんですよね、セルバンテスやフロベールがそうだったように。先ほどの「現実効果」の議論になぞらえるとすると、純愛から二股・マナマナまで詰め込むために、あの「本筋」を入れ物として作ったわけなのでしょう。だから、specificationとか何とかいって水月犬エンドをいれたり、ファンディスクで事故の起こらないシナリオを平然と作ったりするわけです。そういえば『螺旋回廊』にも何も事件の起こらないシナリオが入ってたりしましたし、今度の『マブラヴ』ファンディスクだっていろいろとアレな感じです。


ぶっちゃけた話、age嫌いの話というのは、物語/小説あるいはロマン主義/リアリズムの対立という古式ゆかしいというかおなじみの対立構造のエロゲ版といった感じです。TypeMoonやKeyがどちらかといえばロマン主義・物語寄りだとすると、ageは明らかにリアリズム・小説寄りという見立て。ペトロニウス氏は



僕は、いつも物語を読むときに、「あるべき物語の姿」ってのを思い浮かべます。なんというか、、、、ある世界があって、そこにある人格があって、、、そして、、、そこの「もう一つの世界」が立ち上がった瞬間に、ものごとは「かくあるべく」あるべきすがたに収束していく・・・・・



その「あるべきもの」が、「あるべきところにおさまる」のが、物語ってやつなんだと思います。


これは、物語の土台が、一貫性を持った思想で貫かれているからこそ起きる感情であって、、、、分岐の分まで、生理的に嫌悪も快楽すべて描いてしまっている「きみのぞ」の脚本構造ではありえない感情だと思う。本当は



ほとんど分岐はいらないのだと思う。



水月と遥だけで十分だと思うよ。



その可能性をすべて描いてしまうところに、品のなさというか、、、そういう部分を感じてしまうというのは理解できる。

と書いていますが、まあそのとおりですよね。物語愛好者にとっては、「本筋」を入れ物として扱うようなageのというか『君のぞ』の作風が我慢ができない。まあ、「その可能性をすべて描いてしまう」品のなさが小説的というか百科全書的というかそういう欲望というか快楽なんだと私なんかは思うわけですね。それは別にageが単に節操がないとかそういう話ではなくて、ペトロニウス氏風に言うと、ageの「思想」は一貫性というよりもバフチン的な多声性というか、雑多な物語を生成する場所を提示するというところにあるのです。さらにアレな話をすれば、そのような猥雑さの快楽というのは、最近のエロゲ界隈においては凌辱ゲー以外にはageぐらいにしか存在しないという摩訶不思議な状況が「気持ち悪い」というか勘弁してほしいというのが私の正直なところ。むしろ、そのようなエロゲ界隈の状況の偏りというか傾向がageの作品を「気持ち悪」くしているのではないかと。