本質主義と構造主義

物事の考え方には、大雑把に言って二通りの考え方があります、多分。ひとつは、個々の事物に本質が内在するという考え方、もうひとつは、本質などどこにも存在しない、存在するのは関係性だけだという考え方。

この考え方の対立は結構昔からあって、古代インドなんかでは、ウパニシャッド哲学の人とかは、物事には普遍的なアートマン=自我が内在するとか言ってました。んで、そんなものない、と言ったのがまあ、仏教だったわけですね。すべての物事は原因と結果が網の目のように相互に依存することによって成立していて、常に変化している。まあ、それを仏教では縁起と呼ぶわけですが、そのような常に変化するものは普遍的じゃ全然ないわけだからそこに本質なんか存在しない。むしろ、本質など存在しないから、物質的な現象でありうるのだ、というわけです、「般若心経」風に言えば。すべての物質は、本質の欠如によって条件付けられている。これがいわゆる「空」というやつです。まあ、それでも個々の人間は自分には自由意志があると思ってますから、この世は一切皆苦。

時代と場所をずっとすっ飛ばしで、近代のヨーロッパでは、「我思うゆえに我あり」とか言った人がいました。まあ、デカルトですね。これは、個人の自意識の独立性の主張で、本質論的です。んで、このインデペンデントな個人の契約関係によって国家が成立する、というのが、現代日本もそうですが、近代国家の基本的なお約束と言うことになっています。しかし、ソシュールとかいう言語学者は、すべての言葉は差異によってのみ条件付けられている、とか主張します。つまり、日本語では猫とか犬とか不思議生物に名前を付けているけれど、その名付けの対応関係は恣意的なものでしかない。その後の構造主義とかのたまった連中は個人の欲望は権力とか国家みたいなシステムによってコントロールされているどころか、そもそも人間の自由意志なるものは社会的な構築物に過ぎないとか何とかいうわけです。

なぜこんな話をするかというと、最近フーコーの『監獄の誕生』を読んだので自慢したかったとかではなくて、『夢幻廻廊』(Black Cyc)が扱っているのがその辺の主題であるからです。システムによって個人的な欲望がコントロールされるというのは、現代文学ではまあ、トマス・ピンチョンの『重力の虹』とか、スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』とか、もちろんこの作品の直接の下敷きになっている沼正三の『家畜人ヤプー』とかで扱われています。こういう主題は権力について書きやすい国家とか、権力性とその転倒を要諦とするエロティシズムなんかと相性がよいので、よく利用される。『夢幻廻廊』は、館とそのほかの社会ということで、スケール的にはちょっとしょぼいですが、館という箱庭的な世界を準備することで、かなり極端というか、なかなか面白いことになってます。