「萌え」られる女の絶望について

ASTATINEの「男性主導/女性主導、上。/中。/下。」という記事に関連してというか準えて。色々と論点はまああるわけですが、とりあえず徐に川端康成『雪国』の引用からはじめてみましょう。

汽車から窓の外を見ている島村は、窓の外の雪景色と、窓に映って見える汽車内の葉子を見ながらこのように考えます。

鏡の底には雪景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野火のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。

どういうことを書いているのか、というのはわかりますかね。窓の外と中の世界を重ね合わせて、ひとつの世界であるかのように、つまり、雪が降り続ける背景の前面に女がいる、という風に島村は想像する。汽車の外の野火の光と娘の目の輝きが重なり合うとき、それは「夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫」になる。二つの世界が重ね合わさった世界は、島村にとって「この世ならぬ象徴の世界」であり、美的な鑑賞の対象です。

鏡というのは『雪国』において頻繁に用いられるメタファで、おおむね、島村が雪国での出来事を非現実的なものとして捉えていることを示しています。たとえば駒子は「夕暮の汽車の窓ガラスに写る女の顔のように非現実的な見方」をされたりする、と。島村にとって雪国での生活とか駒子との関係は幻想的で非現実的なものであり、駒子の情熱的な姿も、傍で見て「美しい」と感じる鑑賞の対象でしかありません。

駒子は島村の情人であるわけですが、彼女は島村にとって都合のいい虚構の存在であるどころか、情熱的なタイプの女性であるので、島村の彼女に対する観照的な態度というのに鼻持ちがならない。

「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと肩肘立てて首を上げると、
「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」
 島村は驚いて駒子を見た。
 「言って頂戴。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」

この場面は、直接的には駒子の勘違いなのですが、二人の間の深い断絶をも示しています。島村の審美的な態度は結局のところ現実への、駒子への無関心であり、駒子はそれに気づいて絶望する。

ここまできて、ようやくASTATINEの記事の話に戻るわけですが、この島村と駒子の間の断絶こそが、エロゲーにおける、あるいはエロゲーを巡る男と女の断絶の正体なのではないでしょうか。つまり、上記の場面で描かれているのは、「萌え」られる女の絶望ではないか、と。「萌え」というのは要するに女を鑑賞することであり、エロゲーの物語がどうこうとか言っても、実際のところ、喜んだり悲しんだり絶望したりしている女の姿を鑑賞するための方便である、と。