エロゲー主人公の作り方
cogni氏が『CLANNAD』のプレイ日記に、
「物語から主人公が疎外されており、ヒロインの物語を読む」などと言及され、その構造が特異とされる昨今のギャルゲーの物語に関しては、本当にそうした「主人公=語り手の物語からの疎外」が歴史的に見て特異なのだろうかと、言い換えるならば、私小説などが始まった頃あたりから語り手は不可避的に物語に関与するようになったものの語り手とは本来的に物語に関与できない存在としてあったのではないだろうか、という、系譜に関する疑問・仮説すら頭を擡げる
といったことを書いているので、そのへんの話を枕にしつつ「語り」の問題について。
単刀直入にいくと、「語り手とは本来的に物語に関与できない存在としてあったのではないだろうか」というcogni氏の仮説は無理筋だろうという気はしますね。ギリシャ悲劇には、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』のプロメテウスみたいな、自分の経歴を延々と語る英雄とか普通に出てきます。あるいは、いかにも「神の視点」から物語ってるっぽいホメロスの『オデュッセイア』においても、オデュッセウスが自らの経験した話として、キュクロプスについて語って聞かせる場面が挿入される。もう少し時代は下りますが、ペトロニウスの『サテュリコン』というネロがハッスルしていた時代の小説は、普通に語り手=主人公の一人称で書かれています。
だいぶ最近の話をすると、『ガルガンチュア』とか『ドン・キホーテ』みたいな17世紀ぐらいまでの小説は、三人称のものが多いですが、18世紀になると『新エロイーズ』や『クラリッサ』を典型とする書簡体小説や『ロビンソン・クルーソー』や『トリストラム・シャンディ』みたいな語り手=主人公の一人称小説が主流になるというか、無茶苦茶流行ります。近代小説において、語り手を排する形式が戻ってくるのは19世紀になってからじゃないですかね。ジェイン・オースティンが18世紀末で、『ボヴァリー夫人』が出るのが19世紀の半ばぐらい。20世紀になると周知のとおり、『失われた時を求めて』とか『ユリシーズ』の時代になるわけです。
んで、エロゲーの話。もちろん、エロゲーにも普通に三人称の作品というのは存在します。有名なのは『ランス』シリーズですね。うちのサイトで取り上げるような作品でいくと、RaSeNの『魔法天使』シリーズなんかもそうです。ただ、エロゲーにおいて圧倒的に多いのは主人公による語りであるのもまあ事実。
主人公による語りといっても色々とあって、『逸脱』の主人公のようないかにも近代的というか意識的な語り手もいれば、cogni氏が話題にしている「物語から疎外されている」主人公とかいうのもいるわけです。実際のところ、確かにあんまりちゃんと主人公していない語り手というのは珍しくありません。『神曲』のダンテとか、『モービィ・ディック』のイシュメールとか、もちろん『シャーロックホームズ』のワトソンとか、脇役というか、出来事が起こるのを脇で見ている語り手というのは結構います。考えてみれば、ロビンソン・クルーソーにせよガリバーにせよ、自分に起こった出来事をリアルタイムに記述しているのではなくて、後年になって回想しているわけです。なんというか、時間的にせよ空間的にせよ、物語からある程度「距離」があると物語りやすいというのはあるわけなんでしょう。
19世紀の末ごろに、ヘンリー・ジェイムズという作家が"Show, don't tell"ということを書いています。tellingというのは、先ほど述べたような「距離」をとって物語る書き方のこと。showingとはその逆で、出来事をリアルタイムな感じで物語ること。ヘンリー・ジェイムズは、小説はtellingよりもshowingでいくべきだ、とか言ってる、と。んで、そのへんから、いわゆる「意識の流れ」みたいな、「本人は語っているつもりのない語り手」が出てくるわけです。
私としては、エロゲー的な「物語から疎外されている」主人公というのは、イシュメールみたいなタイプというよりもむしろ、ダロウェイ夫人みたいなタイプの語り手なのではないかという気がします。ぶっちゃけた書き方をすると、ちゃんと主人公をしていないのではなくて、ちゃんと語り手をしていないのだろう、という話。

