なぜ泣きゲーヲタは性描写を嫌うのか
理由としては、泣きゲーヲタはそれなりに面白い話が読みたいだけで、そもそもエロには興味がないという優等生的というか言い訳めいた理由や、物語系エロゲーがしょぼい理由で指摘したような、「欲望の塊である凌辱系エロゲーとの差別化」のためにエロを嫌悪するポーズを取る必要性がある、などといったような理由が考えられますが、ちょっと違った観点から今回は考えてみたいと思います。
ジル・ドゥルーズというちょっと電波の入った哲学者に『マゾッホとサド』という本があります。一種の対概念としてサディズムとマゾヒズムを扱うというよくある図式を批判し、サドの芸術とは共通点を持たない、それ自体独立したオリジナリティのある芸術としてマゾッホの作品を読み解く、といった感じ。マゾッホは今ではあまり読まれてませんが、確かに普通に面白いというか明らかに天才です。それはそれとして、ドゥルーズはこういうことを書いています。
マゾッホ的否認の過程は途方もなく進行するので、遂には性的快楽それじたいを対象とすることになってしまう。性的快楽の到来が最大限に引きのばされるので、その結果としてまさに快楽を感じるその瞬間に現実は否認され、かくしてマゾヒストは「新たなる無性的人間」へと一体化するのだ。
マゾッホの芸術の基本は「宙吊り」、要するにまあお預けというか放置プレイです。それが極限的にまで進行すると、性的な快楽・猥雑性まで「宙吊り」にしてしまい、女性をそしてもちろん男も無性化する。んで、そういう志向はあくなき暴力を反復するサドとは異なり、絵画や彫刻のように「仕草なり姿勢なりを宙吊りにすることで、その主題を永遠化する。」
エロゲーは平気で延期をしバグを出しまくるのでエロゲヲタはマゾヒストだというのはまあ与太話ですが、泣きゲーにおいてよく見られるようなヒロインの中性化・非女性化は、泣きゲーヲタのマゾヒズム的欲望と関係があるのではないか、とこじつけてみましょう。要するに、泣きゲーヲタはマゾヒストなので、その性癖から性的快楽を宙吊りにすることを好むのです。さらにマゾヒズムにおいては、暴力の欲望は暴力される人間にアイデンティファイしたい、むしろ罰してほしいという欲望と結びついているので、泣きゲーヲタ好みの作品においてはヒロインは中性化しひどい目にあったりする、と。
この辺は、『Air』が非常に典型的です。観鈴は『Dream』編から過去話の『summer』編を経て『Air』編へと読み進められるにつれて、普通のかわいい少女から宙吊りされた翼人の末裔へとセクシュアリティを剥奪されていきますし、『Air』編においてカラスになった往人はお預け状態のまま、観鈴がゴールを迎えることで永遠にサスペンドされるのを見守ることになる。ここにマゾヒズム的な欲望の様式を見ることは、まあ可能でしょう。
そういうことで結論としては、泣きゲーヲタは別に性描写を嫌っているのではなく、放置プレイをされ性的欲望を宙吊りにされることを好んでいるだけなのだ、ということになります。本当かよ、という気はまあしますが、気にしない方向で。

