ヒトとモノの微妙な関係
数日前に、コラム: なぜエロゲーオタクは嫌われるか という如何にもアレっぽい記事がカトゆーに貼られていて、あらら、とか思ったんですが、それに海燕氏の反応した記事が結構面白い。 [ゲーム] コラム: なぜエロゲーオタクは嫌われるかという記事でヒトとモノを同一視する作品群について書いている。んで、その落ちの一文を引用。
そうしたあたらしい(あるいは古い)認識は、とても危険なものであることには違いない。それは「ヒト」を世界の中心から外してしまう考えかただともいえる。しかし危険だからこそスリリングであり、魅力的でもあります。少なくともまあ、「善」とか「健全」とか「正常」よりは。
最近、ロブ=グリエ、サドと如何にもそれらしい作家を偶然取り上げたので、彼らと関連して書こう思いますが、サドはまあ、よく知られているようにサディズムの語源となった人で、結構無茶苦茶なことを書いている。母親はいつでも自分の生んだ子をくびり殺す権利を持っているとか言わせたり、嬉々として大虐殺を行わせたり。
人間をモノのように扱うというのが、まあ彼の頭のおかしなところです。しかし、それはキリスト教やら市民道徳やらに抑圧された人間の全体性・身体性の回復という、巻き込まれた人から見ればかなりはた迷惑というか自分勝手な主題と結びついている。倫理やら宗教やらが人間を鋳型に嵌め去勢するものだとすれば、それによって失われてしまったものを取り戻さなければならない、という考えですかね。かなりサドに好意的な考え方をすれば。人間をモノとして扱うことが、人間性の回復につながるのだ、という逆説的というか捻じ曲がったテーマ。延々牢獄に入れられた恨みつらみを書き連ねたサドの僻みという側面も、普通にあると私は思いますが。
サドの悪の哲学は、ぺんぺん草も生えない荒地を通り過ぎた21世紀からみれば素朴な感じすらします。しかし、ロブ=グリエになるとかなり電波が飛んでいて『新しい小説のために』という有名な評論集では、近代小説に見られる人間中心的な作品をぼろくそに批判します。ちょうど、『反復』の解説で平岡篤頼がその辺をうまくまとめているので引用します。
彼は一定の性格を与えられた主人公を中心とした、首尾一貫した筋に沿って時間イコール因果関係という擬制のなかで展開される伝統的な小説作法を痛烈に批判し、世界はそのような人間中心的な構造を持ってはいない、「人間は世界を見つめるが、世界は人間に視線を返しはしない」として、あるがままの世界を見つめるために、作家は視覚描写をもっと重視しなければならないと主張した。
平岡篤頼がこの文章のすぐ後で触れているように、ロブ=グリエがこの主張をどのぐらい本気でしたのかはいまいちよくわかりませんが、どちらにしても、ロブ=グリエの問題意識にはそれまでの小説というかリアリズム小説で規範として常識だと思われていた約束事を片っ端からぶち壊すというのがあります。話の筋も時系列ごちゃ混ぜでよくわからないし、殺人事件がおきても全然解決しないし、そもそも語り手が二転三転しさらにそれぞれ複数の呼称を持ってて意味不明、とかそういう芸風。
そうやって、登場人物や物語を腑分けするように解体していくというのが彼をはじめとするヌーヴォー・ロマンの方法であったわけですが、彼らはいったい何をしたかったのか。人間観というか、人間に関する考え方の変化というのはあるでしょう。理性崇拝というかなんというか、理性なり論理によって、人間は自分自身のことを完全に理解し支配しうるという考え方が近代には普通にありました。まあ、今でもそう考えている人は普通にいるでしょうし、かなりの部分において実際正しい。んで、そういう考え方は西欧的な近代市民社会への信頼、国民国家の隆盛を背景としている。
しかし、フロイトなんかは人間には無意識というのがあって、人間は理性によって自分自身のことを完全に支配しているわけではないとか主張し、二度の世界大戦やらで科学や理性への信頼もぐらつき、そのような素朴な人間や理性、そして社会や国家への信頼は失われた。それが所謂「大きな物語」の喪失というやつですが、そういう世界において、人間のことをいかに描き得るのか、というのがまあ、ヌーヴォー・ロマンの問題意識ではあったのでしょう。ただし、信頼が仮に失われたとしても、国民国家はまったく滅びる気配がないわけで、それがポストモダンの挫折というか失敗というか問題の話につながるわけですが、あまり今回の話とは関係がないので省略。というか、ちょっと長く書きすぎたのでこの辺でやめ。続きはエロゲー関係のネタがなければそのうち書くかもしれません。

