物語における「場所」と「時間」の諸問題

身辺雑感/脳をとろ火で煮詰める日記: 物語の中の「場」とか萌え理論Blog - 物語にとって「場所」とは何かの話。

物語における「場所」についてというのは、私にとっては昔バフチンの『小説の時空間』を読んで以来ごくまれに思い出しては、うーん、とか考えるぐらいには関心のある話です。

しろうと氏は「場所」が重要な意味を持つ文芸ジャンルにミステリを挙げていますが、私がごくまれに「場所」について考える際に、そのモデルとして考えていたのは怪談でした。怪談において恐ろしいことというのは基本的にある特定の場所において起こる。学校の七不思議系の話はわかりやすいですが、女子トイレの中とか音楽室とか、とにかくある特定の場所に行くとイベントが起こる。見た人が一週間後に死ぬとかいう『リング』のビデオも、テレビは基本的に動かないわけですから、その点においては共通した「場所」についての感覚があります。

ただ、私たちはどこでも勝手にイベントの起こる「場所」になってしまうことがある、ということをよく知っています。携帯に電話が突然かかってくるとか、そういう話。携帯に電話がかかってくることで、道端でも部屋の中でも勝手にそこが「場所」になる。そういう「場所」についての感覚を描いた、というかたぶん描いている作品に、しばらく前に少し紹介した『ワールドエンブリオ』という漫画があります。この漫画では電波に乗って人間に寄生してその体を乗っ取る「棺守」とかいう化け物が出てきます。携帯電話が鳴って、電話を取ったら次の瞬間に化け物に乗っ取られている、そういう感じ。『マトリックス』のエージェントかよ、といった感じもしますが、それはそれとして、『ワールドエンブリオ』や『マトリックス』に見られるこのような「場所」についての感覚は、「ある特定の場所に行くとイベントが起こる」という感覚とはかなり異質なものです。こちらの意識の外から突然イベントが押し付けられる。TPOを考えろ、といった感じです。

この二つの「場所」についての感覚の違いという点から、エロゲー史上の傑作と目される『悪夢』と『絶望』について考えてみましょう。わざわざ説明する必要はないと思いますが一応説明しておくと、『悪夢』は病死寸前の金持ちのボンボンが仲間とともにバスジャックをし、拉致ってきた女たちを建物の中に閉じ込めとりあえず犯しまくる、という話であり、『絶望』は幽霊になったボンボンと愉快な仲間たちが、街中を練り歩いて女たちを拉致って監禁して犯しまくる、という話です。

『悪夢』においては場所は女たちを監禁している建物の中に限定されています。さらにいえば、実際に作中に出てくるのはその中でも紳一がいる部屋とか監禁している部屋とかぐらいで、かなり限定された空間の中で物語は進みます。紳一は病弱なのでろくに動けないとかありはしますが、それ以上に重要なのは『悪夢』においては、女たちを監禁し犯しまくるというのがひとつのゲームである、ということです。ゲームといっても、主人公はほとんど死に体なので、子供の遊びのような気楽さというよりも、半分我慢大会みたいな感じですが。実際、紳一が病弱で死に掛けているということが、作中で言及されることはまったくありません。それはゲームの「外」の出来事なのであり、触れるとゲームは終わってしまう。

一方で、『絶望』は『悪夢』と比べるとかなり自由な感じがします。紳一も仲間たちもみんなもう幽霊ですから、いつでも自由に飛び回るというか歩き回ることができます。作品の舞台はある程度限定されています。しかし、それはどちらかといえば紳一の生活圏というかそういう意味での限定であり、限定されていることにそれほど意味はありません。『絶望』という作品は「特定の場所に行けばイベントが起こる」ちょっと使いづらい感じのマップ移動型のADVですが、一般的なマップ移動型のADVと決定的に異なるのは『絶望』における時間の扱われ方です。プレイした人は非常によく知っているように、『絶望』においては時間が余ったりめんどくさかったりすると、時間を30分とか3時間とか経過させることができます。イベントが起こるのは2時間後だから、それまでここで待っておこう、とかそういう感じ。この時間についての異様なまでの自由さ、あるいはヒロインの尋常ではない多さが、『絶望』を「特定の場所に行けばイベントが起こる」作品というよりもむしろ、「どこでも勝手にイベントの起こる場所になってしまう」作品にしています。「特定の場所と時間」があっても、紳一の行動の自由さのために、それは半ば無効化してしまう。死という最後があらかじめ決まっている『悪夢』とは違い、『絶望』には紳一がヒロインたちに乗り移るエンディングの多彩なバリエーションが存在することは、二つの作品の性質の違いを端的に示しています。

『悪夢』と『絶望』の比較によって明らかになるのは、「場所」は「時間」によって固定される、という当たり前といえば当たり前の事実です。死ぬことによって終わる『悪夢』と終わりのない『絶望』の違い、これが二つの作品の「場所」についての感覚の違いを生み出している。携帯電話はどこでもイベントの起こる「場所」に変質させるけれど、その「場所」は電話がかかってくる「時間」によって「そこ」に固定される、ということですかね。