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レビューを書いて電波をゆんゆん飛ばすためには文学理論が有効です。何も考えずにテキトーに思いついたことを書きなぐるよりも、理屈をつけたほうがまともっぽく見えます。廣野由美子は『批評理論入門』の序文において
(理論を理解しつつそれを用いて:引用者注)小説を読む力を研ぎすませてゆくことによって、私たちの印象はさらに鮮やかなものへ、直観はさらに鋭いものへと磨かれてゆくだろう。
と述べていますが、これはまあその通りでしょう。しかし残念ながら、当の『批評理論入門』は、「間テクスト性」の項とか用語解説の間違いが目立つし、『フランケンシュタイン』を使った理論の実践も薄っぺらくて詰まらないという体たらくなので、あまりお勧めできない代物です。
とりあえず入門書としてお勧めなのは定番ですが、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』とその実践編『クラリッサの凌辱』でしょうかね。超長編書簡体小説『クラリッサ』の翻訳はほとんど入手不可能なので、後者はいろいろつらいかもしれません。原文なら一応グーテンベルクのe-textにあります。あとは日本の若手の研究者たちが編纂した『読むための理論』という批評用語の簡単な解説を集めたものがありますが、これは解説がいかんせん短い。巻末についている文献紹介は非常に有用です。ただ、こちらは入手難。
web上の解説では比較・理論文学入門に西田谷洋の講義メモなどありますが、やや偏見がキツい感じ。stydy notesに佐藤啓介によるニュークリティシズムから読者反応批評までの文学理論の解説があります。
私なりに簡単に流れをまとめると、20世紀の初めのころにニュークリティシズムというのが出てきます。主張としては、従来の批評を「意図の誤謬」・「情動の誤謬」として批判し、テクストの独立性を重視する。つまり、テクストを作者の意図とか歴史的な条件に還元していたとして従来の批評を批判します。そして、テクストそのものを分析することを重視したわけです。ただ、彼らは難しいものほどいいものだ、といった感じで、イギリスの形而上派詩人とか『トリストラム・シャンディ』なんかばっかりを取り上げた上に、言葉や比喩のレベルに強く反応しすぎたために文脈の理解が疎かで、小説、特に長編小説の分析などではたいした成果が残せませんでした。
大体同じころ、ロシアでフォルマリストとかいう人たちが活動していました。彼らはソシュールなんかの言語学の成果を利用し、テクストの構造分析に先鞭をつけました。習慣的な行為や感覚を真新しい印象を持って感じさせる文学テクストの機能を「異化」・「明視」という概念を使って定式化します。もちろん、文学テクストのそのような機能は、オスカー・ワイルドの有名な警句「自然は芸術を模倣する」を引くまでもなくよく知られていました。しかし、フォルマリストの独創は、それを芸術の最も本質的な機能としてすえたことです。ただ、彼らの限界もそこにあって、詩とか前衛的な作品ならともかく、普通の小説なんかは「異化」するような文章ばかりで書かれているわけではないし、というか、そんな表現ばかりで書かれたら読みづらくてしょうがない。結局、彼らの友達も難解な詩とか『トリストラム・シャンディ』でした。
フォルマリストなんかの影響もあり、フランスで構造主義というやつが生まれます。これは、作品の形式とか構造に注目する立場で、内容の分析はそっちのけにして、類型の分類とか一般的な構造の探求とかやってました。同時代の言語学の流れ、生成文法とかと問題意識を共有しています。。ニュークリティシズムと異なる点としては、この人たちは文学テクストに固執しなかったのですね。どんなテクストでも取り上げて、普遍的な深層構造とやらを探そうとしました。が、当然のことながら、そのような試みは挫折します。
構造主義に影響を与えたものとして、精神分析を抜かすわけには行かないでしょう。代表選手は言うまでもなくフロイトですね。彼は、意識の奥に無意識という人間の意識を規定している深層構造を「発見」し、その解明に乗り出します。ユングは無意識を社会的に普遍的な集団的無意識にまで拡張しますが、かなり電波入ってます。ラカンは構造主義世代ということで、無意識に言語というファクターを加え、無意識はひとつの言語として構造化されている、と主張する。まあ、どちらにしても電波です。
構造分析の流れから普遍的な構造の探求という目的が脱落したところにナラトロジーが誕生します。テクストの独立性とその分析を重視する立場は相変わらずですが、テクストにより作者と読者が含意されている、という立場を取ります。つまり、テクストを読むという行為は、読者の脳内で「含意された作者」が「含意された読者」に語りかけるという現象であり、そのありかたがテクストによりあらかじめ構造的に規定されている、と考える。そして、語り方なんかが重視される。何がどのような順序で誰によって何度語られるのか、そして何が語られないのか、というわけです。
それをさらに極端にすると、受容美学とか読者反応批評とかいうやつになります。この立場だと、テクストは読者が作り上げるものだ、ということになる。テクストによって読者像があらかじめ含意されているというのは変わりませんが、読者・読書行為に強い関心を寄せました。読者は受動的にテクストを受け取るのではなく、積極的に意味を生産する主体となります。
しかし、ナラトロジー・受容美学には大きな欠点があります。これは、読者の脳内で起こっている現象のみに注目した議論であり、実際の作者とか読者は無視されます。当然のことですが、作品を実際に書くのは実在の作者ですし、読んで面白いとか思うのは実在の読者なわけです。さらに、文学の歴史性というか連続性というのも無視されます。作品はそのときそのときの読者の脳内にしか存在しないことになりますから、一人の作者の異なる作品を同じ作者の作品として認知できない。
そこで、テクストの社会的な影響というか、テクストを社会・歴史の網の目のひとつの結節点として捉える立場が出てきます。歴史的なコンテクストから読めば新歴史主義ですし、文化と権力性のコンテクストから読めばカルチュラル・スタディーズ、旧植民地圏と宗主国のコンテクストから読めばポストコロニアルになる、と。ま、フェミニズムとかジェンダーとかもこの領域です。これらの立場では、文学テクストは言ってみれば資料のひとつみたいなものです。語りたいことの傍証として文学テクストを使う。そのため、解釈は時に一面的であり、恣意的ですらあります。
いわゆるポスト構造主義も似たようなものではありますが、彼らはその呼び方が示すように構造主義への反省から考え方を進めています。構造主義はその性質上、基本的に構造を固定的なもの、あらかじめ決まった不変のもの、と考えますが、ポスト構造主義は構造は生成されたり変動するものである、ということを重視しました。まあ、歴史的な視点など導入して相対化したとでも言えばいいんでしょうか。それで、文学の領域においても、テクストにおいて階層秩序的な二項対立が解体されていることを指摘して脱構築だとか言ってみたり、「間テクスト性」とか言って、テクストをあらゆる文化的で時に異質な要素の引用の織物であるとか主張する、と。
とりあえず、こんな感じですかね。かなり強引にまとめているところもありますが、概ね間違ってないと信じたいです。まあ、間違っていても気にしないでください。
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コメント
2周年おめでとうございます。
どんなジャンルにおいても、構造と構築の過程というものが一番面白いように思えますね。エロゲーも混迷を続けて欲しいものです(笑
投稿者 kenta
どうも、ありがとうございます。
まあ、上からつぶされない限りは大丈夫だと思いますが、
こちらを立てればあちらが立たず、みたいなのがダイナミズムを生むんでしょう。
投稿者 bmp_69