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作家―作品―読者の関係ということを考える場合、どこまで時代をさかのぼって書き始めればいいのかよく分からないとか、まあ色々あります。
とりあえず、中世ぐらいのヨーロッパにまでさかのぼってみましょう。このころは、作品というのは、社会的・宗教的な文脈で評価されていました。典型的なのは宗教画ですが、この作品は聖書の何とかのエピソードのキリストのステキさを上手く伝えている、とかまあそういう感じです。宗教・あるいは道徳とかそういう社会の構成員に共有されているイデオロギーがあって、その評価軸に沿って作品が評価される。社会・宗教的なコミュニティーによって芸術の正当性が担保されるのが、まあこの時代。
近代は個人主義ということで、そのような社会的・宗教的な価値観から芸術の価値観を自立させることが目指されました。ロマン主義の芸術観なんかは分かりやすいんですが、天才の作者が何か普遍的な真理みたいなものを発見して、それを作品という形で表現する。読者は作品を読むことで、作者が発見した普遍的な真理に至ろうとする。この場合、作品の評価は表現されていると目される主題によってなされます。この作品に表現されている人間は自然に比べると卑小だという主題はステキだ、とかそんな感じ。この場合、その主題の正当性は社会とか宗教を担保にしたりはしません。評価の基準は、芸術的な価値判断というやつです。ロマン主義とかその手の評価するための体系としてのイデオロギーがあって、それに基づいて評価する。
んで、現代。電波系レビュアーのためのLiterary Theory入門にも書きましたが、とりあえず、作者とやらはウザイので死ねということで、作品の評価を作者から自立させることになりました。近代的な芸術観だと、評価されているのはあくまで作者の思想とか美意識であって、作品そのものではない。ニュークリティシズムの人なんかは、「作者の意図を考慮する誤謬」とか何とかいって、作品を自立的なものとして評価するべきだ、といい始めます。
この、作者の意図なんか知ったことか、という考え方は、何となく乱暴っぽい雰囲気はありますが、それなりに正当性はあります。作者なんかの言うことは自己弁護ばかりで当てにならないし、作者の意図に読み方を決められてたまるか、というのもまああるんですが、それよりも問題なのは、作者の発言、というのはかなり重要だということです。何か当たり前のことを書いていますが、作者がこの作品の主題は不倫セックスは気持ちいいということだ、と言ったら、何となくそうに違いない、とか思ってしまう。作者は「作者である」というだけで作品に対して特権的に大きな影響力を持つわけです。だって、その作品を書いたのは作者ですから。あと、作者が自分の作品について最もよく知っているとは限らないというのもあります。フロイトの精神分析なんかは有名ですが、作者の意図していないもの、抑圧された欲望とか、が作品に表現されているというのは、まああるでしょう。
ということで、作者の意図なんか気にしないことにして、作品それ自体を分析しましょう、というのが基本になります。構造分析とかの流れはまあ基本的にこんな感じなんですが、それではやっぱり駄目なんじゃないか知らん、というか、そんなこと出来ないとか思う人も当然いる。
ドイツには、20世紀前半にはフッサールというオッサンがいて、現象学をやってたんですが、その流れで解釈学・受容美学というのが出てきます。解釈学の代表的な理論家であるガダマーは作者も読者も歴史的・社会的条件によって限定されているということを重視します。考えてみれば、というか考えなくても当たり前ですが、作者はある時代のある場所で作品を書く、そして読者はそれをある時代のある場所で読む。読者はそのときに自分の置かれている歴史的・社会的な条件のもたらす先入観の下でしかテクストを読むことが出来ない。まあ、ソ連崩壊後の今になって、いかにもマルクス主義っぽい文章を読むとアホっぽく見えるとか、そういう感じです。普通は、そういう先入観というのは唾棄すべきもので、先入観を取り除いて作品を読まなければならないとかいうわけですが、ガダマーはそうは言わない。先入観を持って作品を読む。そして、読者の先入観を覆すように作品が展開し、結果として読者の意識が更新される。こういうのを「期待の地平線」が更新されるとか呼んだりするんですが、要するに、作品を読み進むことで、読者の意識が進歩する、と。その働きを重視した。「期待の地平線」を更新するような作品がいわゆる文学であり、「期待の地平線」の枠に沿った作品がエンタテイメント、「期待の地平線」の枠内にある作品が糞。教養主義的というか糞真面目なドイツ人といった感じです。まあ、あまり意味不明に予想外の展開をしても読者はついていけませんから、読者の関心をひきつけるような仕掛けが必要。んで、この考え方から糞真面目さを抜いたらロラン・バルトの「テクストの快楽」になるわけです。
受容美学の代表的な理論家はイーザーとかいう人ですが、彼はテクストの内部に変数として作者と読者を導入します。イーザーは読者は自分の好き勝手にテクストを解釈することは、実は出来ないといいました。読者はテクストによってあらかじめ決められている読み筋をたどることでしか、テクストを読み進むことが出来ない。どのように書かれているかによって、どのように読むかが決まる。んで、どのように読むべきか、読者の視点を構造化するのは、もちろんテクストの書き手である作者。
私の意見を簡単に書いてしまうと、客観的な立場でテクストだけを取り出して読むことが出来る、とかいう考え方は、結局、時空を超越した普遍的な関係性に裏打ちされたロマン主義的な作者―読者観の焼き直し、というか亡霊なのではないでしょうかね。特権的な貴族主義はテリー・イーグルトンも指摘しているように、ロマン主義にもニュー・クリティシズムにも見出せる。そのへんは、結局、回避できない問題なのでしょう。なので、結局はテクストそのものも色々と相対化しつつ距離をとってテキトーに読むしかない、ということですかね。微妙な問題はまあありますが。
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コメント
「最終的な読者は作者である」というやつですね。しかし読者を余りに意識する作家というのは、いつの時代もイマイチな人が多いように感じますね。
投稿者 taro
まあ、作家なんか自意識過剰な人がなるものですが、
あまり過剰すぎるのもよろしくないでしょうね。やはり。
投稿者 bmp_69
なんか難しい話でしたが、「期待の地平線」が更新される、辺りの内容はなんとなく共感しました
そこまで理解してないので使い方違うかもしれないんですが、こういうのもあるんだ、と感じれた話は私はいい作品だと大抵思えましたから
投稿者 ラッキー