2005年12月25日
二元論の超克と隠蔽された「他者」
物語の読み方/二元論について、とその続き物語の読み方/二元論の超克/数字は2よりも3がいい!!という記事。私はガノタではないので、まあ、テキトーな話を。
19世紀の小説をある程度読んで驚くというか疑問に思うことのひとつに、19世紀の小説にはやけに姦通、つまり不倫を扱った小説が多いというのがあります。19世紀小説の最高傑作と目されるフロベールの『ボヴァリー夫人』や『感情教育』がそうですし、スタンダールの『赤と黒』も、トルストイの『アンナ・カレーニナ』も、もちろんホーソーンの『緋文字』もそうです。その変種というか亜種として、ドストエフスキーの『白痴』みたいな三角関係の小説やヘンリー・ジェイムズの『ある婦人の肖像』みたいな寝取られ小説がある。
19世紀の重要な作家がなぜここまで三角関係に拘るのか、というのには、一般にいくつかの理由が考えられています。たとえば、単純明快、他人のスキャンダルほど面白いものはない、という理由。現代のワイドショーを見ても一目瞭然であるように、人間は他人の恋愛関係のトラブルの話は大好きなので、そのような主題を扱った作品が受ける、というのがある。そして、三角関係というのは、互いの心理を想像しては懊悩するものですから、登場人物の心理を事細かに分析するには格好の素材でもあります。このへんはヘンリー・ジェイムズが得意としたところで、彼は不安になり懊悩する寝取られ男の心理を事細かに分析しています。
もうひとつ重要な理由として、主人公―ヒロイン―ライバルという三者の関係が、19世紀市民社会の縮図であるということが挙げられます。「私」と「あなた」の関係に社会を代表する他者である「ライバル」が組み込まれた関係性。このバリエーションはもちろん『ロミオとジュリエット』のような作品にも見られますが、三角関係においては、三者の関係は不安定で流動的なものです。一概に社会が恋愛を邪魔をする敵対的な存在であるとはいえず、その立場は互いを相対化するものです。まあ、ただの恋敵ですからね、結局。
このように、姦通小説というのは良くも悪くも近代的な小説であるわけですが、少し違った視点から見てみると、そのような作品にも二元論が隠れていることが分かります。例えば、19世紀市民社会に典型的なpublicとprivateの使い分け。社会的にはpublicな存在で、家庭はprivateだ、というわけですが、これが女性の抑圧を生み出すと例えばフェミニストなんかは言う。publicな領域では皆平等ですが、一方でprivateな領域では家父長制的な女性差別むき出しだ、というわけです。このような、視点から19世紀小説を男同士の共犯関係として読んだのが、なぜか今年ネット界隈でよく見かけたセジウィックのホモソーシャルの議論だったりする、と。
あるいは、西欧市民社会の外の社会についてはどう考えているのか、という問題。19世紀はもちろん帝国主義バリバリの時代ですから、異民族なんか差別しまくりです。小説においても、彼らはステレオタイプ化されて表象される。これが、サイードのいうところのオリエンタリズムというやつですね。多元論も切り口を変えると二元論に早変わり。それならば、いかにも二元論的な作品も切り口を変えれば多元論的に読めるとか何とか。
まあ、あらゆる人に目配せするのは原理的に不可能ですから、この手の他者というのはいくらでもわんさか出てきりがない。それならばどうするのかというのは、なかなか微妙な問題です。
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