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2006年02月07日

ただそこに重ねられる解釈

最近は久しぶりにフォークナーの『響きと怒り』を読んでいます。読み返すたびに新しい陰影を持って感じられるような作品というのはやはり多くなくて、アメリカ文学ではこれとメルヴィルの『白鯨』ですかね、代表的なものは。

『響きと怒り』は南部の旧家であるコンプソン家の没落を書いた作品です。当時流行っていたいわゆる「意識の流れ」の手法によって書かれた作品で、言葉を理解しない白痴ベンジーの心理の動きをカメラアイのような描写で追った第一章と、自殺直前のインテリ青年クェンティンの心理を分析した第二章が非常に有名。私も最初に読んだときはベンジーとクェンティンのインパクトにやられました。

今回読み返して思ったのは、ジェイソン・コンプソンが語り手である第三章が意外と面白いということ。第一章、第二章のインパクトと比べると、ジェイソンの語る第三章はいかんせん地味な感じがします。この章は普通のジェイソンの一人称ですし、ジェイソンは即物的というかリアリスティックなタイプの人間で、この作品の中の言い方を借りればコンプソン的=悲劇的な人間ではない。実験的手法をこれでもかというほど詰め込んだ第一章、第二章と比べて、やはりあまり魅力的ではなかったし、ジェイソンもいうなれば普通の俗物です。

しかし、そんなジェイソンも、もちろん何もかもが金勘定だと思っているわけではない。彼には彼なりの悩みがあって、彼なりの仕方で自らの運命に抗っています。その有様は、例えば作中では絶えざる頭痛などによって、まあ描かれているわけですが、ジェイソン自身は基本的にそんなことを語りたくないわけです。だから、隠す。「意識の流れ」の手法で書かれた作品においては、語り手は自らが語っているという意識は無い、というのが前提ですから、意識的に起こったことを書かないということはやらないわけです。もちろん、無意識的に語られないこと、ベンジーが泣いたとか、クェンティンが妄想にふけっていて現実のことの描写がろくに成されないまま進む、とか、そういうことはありますが、ジェイソンは語りたくないことを意識的に隠す。そして、フォークナーはそれを、ジェイソンがここで意識的に隠しているのだ、というのが分かるように書く。

そういうことを考えていくと、ジェイソン・コンプソンの章は意外と味わい深い。直接的に悲劇的なベンジーやクェンティンと比べて、ジェイソンは屈折し間接的であるだけ悲劇は相対化され散文的になる。クェンティンがスティーブン・ディーダラスタイプだとすると、ジェイソンはレオポルド・ブルームタイプですね。即物的かつ散文的であるがゆえにこそ偉大なる凡人の系譜。

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