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2006年04月15日

セカイ系において女はいかにして抑圧されるのか

モノーキーの一連の話を受けつつセカイ系の話。

セカイ系というのが一般的な用語なのかよく知りませんが、とりあえずWikipediaのセカイ系の項から定義を引いておきます。

作品の主役の個人的な行動や性質、対人関係、内面的葛藤などが、「日常生活」ではなく「世界」そのものの存続を左右する…という設定を特徴とする。また他の特徴として「ボク」と「キミ」という二つの存在が、ストーリーの鍵となるケースが多く、二人の個人的行動、特に恋愛が「世界」の命運を握る傾向が多く見受けられる

近代文学の領域だと、社会の中に生きる人間の生活を描くリアリズム小説としてのnovelと対比させて、社会的な要素のない作品をromanceと呼んだりしますから、セカイ系はromanceの系譜の作品群、という理解で大体よいですかね。確かに、後期ゴシックロマンスの代表的な作品である『フランケンシュタイン』は、何となくセカイ系っぽい作品です。ヴィクターのプライベートな問題が世界の存続と関係しますし、女の化け物を作るかどうかという問題を、世界を救うことを選ぶか自らの保身を選ぶかという問題である、と少なくともヴィクターは考えていて、そこに社会は終始介在しない。さらに、象徴界の欠如ということは、ヴィクターに関してよく指摘されていることです。

んで、そのような作品群において、「女の内面が収奪されている」というのが本題。なぜそんなことがされるのか、という問いのそれなりにもっともらしい答えとしては、制度的に女の他者性を奪える装置である社会がセカイ系においては欠如しているからだ、という元も子もないものが考えられるでしょう。要するに、社会においては女の内面は何もしなくても自然に収奪されているが、セカイ系の作品には社会がないため、わざわざ(語り手などが)収奪しなければならない。

このへんは「萌え」られる女の絶望についての補足というか続きの話。はてブで、女を鑑賞するのは萌えというよりエロではないか、という話が出ていますが、私は鑑賞するだけでは「エロ」は成立しない、と考えます。9791氏がコメント欄で指摘しているように、エロは性欲であり、性欲はセックスと結びつき、セックスは対象との一体化の欲望と結びついています。すなわち、「萌え」た対象にコミットメントしたいと思うときに「エロ」が成立する。しかし、対象と一体化するとき、「対象を鑑賞する」という安定した立場は危機にさらされてしまいます。このへん、男と女のセクシャリティの差異を考慮に入れると面白いかもしれません。それはともかく、それならば、「萌え」ながら安全に性欲を満たすにはどうすればいいのか? それで、とりあえず女の他者性を奪っておけば安心できるのではないか、という話になる。モノーキーの人いわく

女性の気持ちがわかってないと、(非モテな)男の子というのは、どう対応すべきかどう接したら良いかはっきり決定できなくて困っちゃったり不快に感じたりするわけだ。

ということ。

そして、どうやって女の他者性は奪われるのか、というのが次の話。その説明に、セジウィックのホモソーシャルに関する議論を援用してみます。ホモソーシャルというのは、女を媒介とすることで男の間の友情を強化し、その一方で、異性愛の価値観によって同性愛を排除する関係のことです。女性嫌悪と同性愛嫌悪を背景にしつつ女を貨幣として流通させる男同士の友情関係が、家父長制的な社会制度を支えている、と。

この理屈を当面の議論にひきつけるためにひっくり返してみます。すなわち、女を貨幣にするために男の間を流通させるのだ、そして、女を流通させるためには男同士の友情と制度としての家父長制が必要になる、というように。要するに、女の他者性を奪うための制度として捉える。まあ、ぶっちゃけた書き方をすれば、ギリシャ悲劇の昔から男女関係は男二人女一人のドリカム的三角関係の間で欲望を流通させるのが基本なので、「ボクとキミ」しかいない関係性というのは「ボク」の立場からすると不安定極まりないのですよね。

んで、非セカイ系の作品においては、女の他者性を奪う制度が社会として機能しているので、女は普通に「モノ」。よって「いや、いずれにしても女は鑑賞される生き物とされてきましたよ。萌えはその一つ」ということになる。一方でセカイ系の作品においては、制度が麻痺しているために、女の他者性を奪うために内面が記述される必要が出てくる。ここで再び『フランケンシュタイン』の話を持ってくると、エリザベスをはじめとするこの作品の女性は、しゃべったりする場面が直接描かれることはほとんどありません。基本的にすべて語り手などの男を媒介にして、女たちの考えが間接的に明らかにされる。語り手と「ボク」と「キミ」の擬似的な三角関係の間で欲望を流通させる、というのはちょっと論点ぶっ飛びすぎというか思いつきテキトーすぎですかね。

どうせなのでさらに決め付けると「エロゲのエロ描写に説明が多いのは、ヒロインの他者性を剥奪して観賞するためなのかもしれない」というのは、エロゲーのエロシーンは、シーン回想で場面を見るだけでも「使える」ようにするために、物語性や社会性をテクストの前面に持ってくることを避けていることが原因のひとつであると考えられます。そうすることによって場面から社会が退き、エロシーンはセカイ系に近づいていく。

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