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2006年09月24日

『淫堕の姫騎士ジャンヌ』レビューアップ

思いのほか時間のかかった『淫堕の姫騎士ジャンヌ』レビューをアップしました。今年の前半はどうなるかと思いましたが、ここに来て良作続きでいい感じです。

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『魔法天使ミサキ2』体験版

魔法天使ミサキ2』(RaSeN)体験版きてます。まあ、エロシーンの一部分を紹介といった感じでたいした内容はなし。ミントがぼろくそにいわれているのは笑いました。

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2006年09月21日

『峰深き瀬にたゆたう唄』プレイ中

二週間近く更新をほったらかして何をしていたかというと、別に絶望的に仕事が忙しかったというのでもなく、こいつをやっていました。『峰深き瀬にたゆたう唄』(エウシュリー)。今はすでに二周目の中盤ぐらいで、だいぶ飽きてきたところです。何というか、簡単に最強装備がそろえられるのが物足りないですかね。あと、『ジャンヌ』はもう終わっているので、今週末ぐらいにレビュー書きます。

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『魔法天使ミサキ2』デモムービー公開

魔法天使ミサキ2』(RaSeN)のデモムービーがきました。そろそろ体験版もくるでしょうから、楽しみです。

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『アノニマス』情報更新

ようやく続報来ました、『アノニマス』(mirage)。タムーシナリオで螺旋路線の新作であることが確定ということで、本当に年内に出るならば今年最大の期待作ですね。

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要するに歴史がないのです

[批評]というほどじゃないけれど。という記事。まあ、そういうのはカルチュラル・スタディーズとかジェンダーとか新歴史主義とか色々あります。というか、「作者は死んだ」タイプのテクスト論なんかより最近は流行ってるんじゃないでしょうかね。コンテクストについて語るのは調べものをする必要があるので面倒くさいですし、大体エロゲーとかごく最近のものについて語ってもなんだかなーみたいなのがあります。要するに、歴史がないわけです。あとは、作者を殺しておけば、とりあえず作品を読むだけで批評ごっこが出来てお手軽だ、というのもあるでしょう。まあ、まともに作品を分析したければ歴史的・文化的背景を調べるのは当然の下準備ではあります。

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2006年09月09日

bmp_69三周年

三周年です、bmp_69。今年はさりげなく忙しいので何も準備してませんでしたが、とりあえずアクセス数は調べました。207万visitors、Page Viewが760万です。一日のvisitor数は上から順に

今年は何かニュースサイトによく取り上げられたというか、まあ、そういう記事をたまに書いたのでこんな感じです。唯一10000/dayを超えたのが小説の記事だというのがなかなか微妙というか味わい深い感じですかね。

去年の今頃は100万visitorsで370万PVでしたから、一年で大体2倍といった感じですか。もうすぐレビューも200本目に到達しますし、なかなか順調です。あと、三周年祝いのコメントはこの記事につけてください。もうしばらくスローペースの更新が続くと思いますが、これからもよろしくお願いいたします。

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悲劇についてのあれこれ、あるいは『Air』から『悪夢』へ

なんとなく悲劇の話。

そもそも悲劇って何さ? といったところから始めましょうか。アリストテレスがだいぶ前に一回定義はしているわけですが、大雑把かつ簡単に要約すると、主人公が最後に理不尽な理由で死ぬ話のことです。人間の理解の範疇を超えた理由で四苦八苦させられ、最後には死んでしまう。運命に抗う人間の高貴さとか、そういう感じです。

悲劇というのは、善人が主人公になることが多いです。ギリシャ悲劇なんかが典型ですね。悪人だと理不尽な目にあっても言語道断だとか、高貴な悪人ってなんじゃい、といった感じですし。まあそれでも悪人を主人公にしても悲劇が作れるのではないか、と考えた酔狂な人もいます。イギリスのウィリアム・シェイクスピアとかいう劇作家がそれ。もちろんシェイクスピアにも『ハムレット』とかギリシャ的な悲劇は普通にありますが、『マクベス』とか『リチャード三世』とか、悪人を主人公にした悲劇も結構あります。『マクベス』なんかは人間的なところもあるのでアレですが、リチャード三世はとんでもない冷血な悪党に書かれているので、普通なら言語道断でやっつけられてハッピーエンドということになるわけですが、シェイクスピアが書くとなぜか冷血な悪党が運命に抗う英雄になってしまう。ちなみに、『ベニスの商人』をシャイロックの悲劇だという見方もありますが、フツーに考えると、タイトルの『ベニスの商人』はアントーニオのことですし、シャイロックは死ぬわけではないので、ポーシャの機転でハッピーエンドを迎える勧善懲悪の喜劇ですかね。

まあ、悪人の悲劇というのは21世紀の人間の立場から見るとたいしたことはないですが、かつては斬新というか奇妙な代物だったみたいで、なぜ悪人が主人公でも悲劇が成立するのか、というのは結構議論されています。たとえば、コールリッジなんかは「不信の自発的宙吊り」とかいって悪人が悲劇の主人公になる論理を説明しようとします。どういうことかというと、読者・観客は物語を鑑賞するときに自分の倫理的・道徳的な判断を棚上げするから悪人が主人公でも問題ないのだ、という話。まあ、確かに物語の登場人物の考え方に納得が出来ない場合というのはよくありますし、そのような時は倫理的判断は宙吊りしている、と思われなくもないですが、よく考えれば、「宙吊り」というのはやはり少しおかしいです。というのも、「宙吊り」というのはどういう状態なのかとか、判断を停止した状態でどのように物語が鑑賞できるのかとか、実際のところぜんぜんわからない。というか、明らかに「宙吊り」になんかしてなくないか? という話です。

『デスノート』にまつわる喧々諤々の議論なんかを思い出せば、その辺はわかるでしょう。あと、どうでもいいですが、『デスノート』ってまんま『マクベス』ですよね。超越的な存在から力を授かった主人公が邪魔になる奴を殺しまくって天下を取ったと思いきや、殺したライバルの後継者に最後には殺される。なので、夜神月が最後に死んでしまったのは少年誌の限界なんかではなくて、悪人の悲劇として『デスノート』が書かれているからだと読むのがオーソドックスな解釈でしょう。まあ、この辺は余談です。話を元に戻して、悪人が主人公でも悲劇が成立するのはなぜか、ということを考えると、薄汚れた21世紀の人間としては、そりゃ、人間にはむごたらしい欲望があるんだから悪人に共感することだってあるだろう、といった感じです。

いつもながら最後はエロゲの話。ギリシャ風の善人の悲劇の典型例としては、エロゲでは周知のとおり『Air』が存在します。まあ、観鈴は善人なのかちょっとオツムがおかしいのか判然とはしませんが、理不尽な理由で最後に死ぬというお約束を普通になぞっています。逆に、悪人の悲劇の典型例としては、『悪夢』が挙げられるでしょう。病弱で死に掛けている紳一は、死ぬ寸前であるという自らの運命に抗うようにして悪夢のようなゲームを繰り広げる。まあ、『デスノート』の夜神月同様、とばっちりを食らった人間にとってはろくでもない話であるわけですが。

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2006年09月02日

『淫妖蟲 蝕』レビューアップ

『淫妖蟲 蝕』レビューアップしました。これはすさまじい代物でしたね。プレイ途中だった『ジャンヌ』も色あせるぐらいの水準。『ジャンヌ』も普通に良作なのになぁ。

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ALICESOFT、『鬼畜王ランス』、『闘神都市2』などを配布フリーへ

まあ、タイトルのとおり。エロゲー史上の最高傑作と目される『鬼畜王ランス』、『闘神都市2』が配布フリーになりました。私は当然両方とも持っていますし、脳みそが腐るほどプレイしたのでアレですが、まだプレイしたことがない人は万難を排してプレイすること。

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『涼宮ハルヒ』と構造的ツンデレ論

おおむねブームは過ぎ去ってる感じですが、思いついたことがあったので。『涼宮ハルヒ』を語る三人のキョンを書くために『憂鬱』を読み直していたときに、妙に気になるフレーズがあったんですよね。冒頭付近のこの一節。

こうして俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。偶然だと信じたい、と。

普通に何も考えずに読むと、ハルヒと出会って毎日くそ大変だから、運命なんかであってたまるか、という建前のキョンお得意の持って回った韜晦です。しかし、以前指摘したようにこの部分が「高校を卒業した後、あるいは少なくとも『涼宮ハルヒ』という作品群において語られるべき物語が全て終わった後の時点」で語られたものであると想定した場合、それとはまったく異なる読み方が可能になります。

涼宮ハルヒは世界を思うがままに変容させる能力を持っています。そのため、少なくともハルヒの周囲は彼女に都合がいいように出来上がっていて、宇宙人とか超能力者とか未来人とかが集まってくる。ですから、彼女の変態能力で集められた(と少なくとも彼ら自身は信じている)宇宙人とか未来人は口をそろえて、涼宮ハルヒの行動には必ず意味があり、キョンが選ばれたのにも必ず理由がある、という風にいいます。まあ、超能力者は素直なのか何なのかよくわかりませんが、「あなたが一番の謎なんです」とかいってますが、どちらにしてもハルヒの行動には必ず意味があり、その結果としてSOS団のメンバーが集められているという前提に立った謎に他なりません。

もちろん、キョンはけったいな因果に巻き込まれるのは御免ですから、そんな理由などは存在しないという風に嘯きます。実際のところ、彼自身が殺されかけたりといった厄介ごとさえなければ、他人事のままですんだはずなわけです。しかし、彼は朝倉に殺されかけ、ついにはハルヒと二人で閉鎖空間に閉じ込められる。ここまでくると、彼自身、自分が「涼宮ハルヒに選ばれた」ということを考えざるを得ない。そして、キョンは決断を下します。

「あんたは、つまんない世界にうんざりしてたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」
「思ってたとも」
(中略)
「あのな、ハルヒ。俺はここ数日でかなり面白い目にあってたんだ。お前は知らないだろうけど、いろんな奴らが実はお前を気にしている。世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。みんな、お前を特別な存在だと考えていて、実際そのように行動してた。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

ハルヒの決定的な一言に対して、キョンはすでに以前のような他人事、たとえば彼氏でも作って遊べばいいとか、そういうありきたりな常識をいう事が出来ない、ということに注意しましょう。ありきたりな常識を吐くだけなら誰でも出来るわけですし、実際、ハルヒと出会った頃のキョンは彼女の破天荒さに対して、彼氏を作って遊べとか、運動部にでも入れとか常識的なことを普通に突っ込んでいたわけです。しかし、キョンはそのような当たり前の結論を退けます。それは、彼がもともと非日常にあこがれていた、というのもありますが、それ以上に、未来人や宇宙人や超能力者とかかわることによって、世界が「常識的な形」には出来上がっていないという現実を知ってしまった、ということが大きいでしょう。キョンが「涼宮ハルヒに選ばれた」ことを認めるということは非日常的に出来上がってしまった世界を認めるということであり、朝比奈みくるが未来人であり長戸有希が宇宙人であり小泉一樹が超能力者であることを認めるということと同義です。それはただの現実認識ではなく、非日常的な存在である彼らに関わった責任を背負うことでもあります。

端的に、この場面で対比されているのは「日常」と「非日常」ではなく「現実」と「幻想」であり、彼の下す決断は現実に対する倫理的な判断に他ならないといえるでしょう。ちなみに「現実」と「幻想」の対比は、この場面とは逆に「日常という幻想」を退ける立場から『消失』において繰り返されることになりますが、それはまあ余談。それはともかくとして、キョンの決断により奇妙な転倒が発生します。それは、涼宮ハルヒを受け入れるということが、涼宮ハルヒの提示する幻想の世界を拒絶することに他ならないということです。つまり、ハルヒを拒絶することによって初めてキョンはハルヒを受け入れることが出来るという転倒。

ここで、改めて冒頭に引用した一節に戻ってみましょう。

こうして俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。偶然だと信じたい、と。

キョンは涼宮ハルヒには世界を好き勝手に改変する能力があると知っている。さらに自分が涼宮ハルヒに選ばれた存在であるということも知っている。そのような前提において、「偶然だと信じたい」と語ることにどのような意味があるのか。あるいは神が存在する世界において「偶然」とはどのような意味があるのか。まあぶっちゃけた言い方をすると、それは要するに自由意志の問題というやつです。涼宮ハルヒが神であり、彼女を中心とした因果が存在したとしても、自分とハルヒが出会ったのは偶然であり、自分がハルヒを受け入れたのは自由意志の問題であるとあくまで主張すること。そうすることによって初めてキョンはハルヒと対等な立場に立つことができ、彼女と思いを通わせることが出来る。ここに見出されるのは、先ほど見たのとまったく同じ構造的ツンデレとでも呼ぶべき転倒の形です。

簡単にまとめると、『涼宮ハルヒ』について語ったりする場合、ハルヒはツンデレだとか、いや、キョンこそツンデレだとかいったりするわけですが、実際のところ、その態度は『涼宮ハルヒ』という作品の構造が要請しているものであり、構造的ツンデレとでも呼ぶべき一種の転倒に他ならないのです。

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