2006年10月11日
『村』の問題と個人の『恥辱』
“村の掟”が不要な人/必要な人の明暗という記事を読んで不意に思い出したJ.M.クッツェーの『恥辱』という小説の話。
J.M.クッツェーというのは南アフリカ出身の白人作家で、2003年にノーベル賞を受賞した人です。南アフリカの人種差別を含む複雑な社会状況を、差別してきた側である白人の立場から赤裸々に描き出す作風が特徴的。この『恥辱』という作品は、比較的実験的な作風を好むクッツェーにしては珍しく、リアリスティックというか昼ドラみたいな作品に仕上がっています。
中年の大学教授であった主人公が、教え子の女の子に手を出して大学から追い出され、娘のいる田舎に引きこもるところから話が始まります。主人公はバイロンなんかを好む都会的なタイプの男なんですが、娘は保守的なタイプで、地方の村社会に溶け込もうと必死。その執着っぷりはちょっとすさまじくて、レイプをされても村社会での軋轢を避けるために訴えなかったり(レイプを行ったのは村社会の有力者の身内)、村社会内での立場を維持するために好きでもない男と結婚しようとしたり、何かに取り付かれているとしか思えないほど。そのため、主人公と娘は終始対立をし続けるわけですが、その対立は作品の最後になっても結局解消されない。まあ、保守的なタイプの父親と、それを嫌う娘というのがありがちな小説の筋ですから、それをひっくり返したようなつくりになっているわけですね。
この主人公と娘の軋轢をどう読めばいいのかというのは、なかなか微妙な問題です。実際のところ、大学教授である父親の視点から語られる『恥辱』という作品においては、娘は完全な赤の他人のような感じで描き出されていて、何を考えているのかよくわかりません。ただ依怙地になっているだけのようにも見えてしまう。この二人の間の断絶というのが、アパルトヘイト前後の南アフリカにおける白人の間の断絶なのかもしれませんが、もちろん大して南アフリカに関心のない私にはいまいちピンと来ないところがあります。まあ、二人の軋轢をその複雑さのままに描き出すところに『恥辱』の面白さがあるわけです。
最後にとってつけたようにこの記事の冒頭で紹介したp_shirokuma氏の議論に戻るとすると、『恥辱』において提示されている父と娘の軋轢は、現代の日本が直面している問題と共通するものがあるでしょうし、そのあり方の複雑さを示してもいるでしょう。
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