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2007年05月31日

『蠱惑の刻』情報公開

TinkerBellあおじる原画待望の新作発表きましたね、『蠱惑の刻』。やはり蟲は健在というか普通にあるんでしょうが、牛がやけにフィーチャーされているのが気になります。

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なぜ物語中毒者はageを嫌うのか

なぜか今頃話題になっているageの話ですが、まずは導入というかなんというかそういう感じでREVの日記の記事

いや、自分でも整理できていないのだけど。

 『作品の強度』

を表す言葉がなんか無いかな、という話。


という話。


んーまあ、そもそも「強度」という用語というか術語の示す意味がいまいちよく分らないというのがありはしますね。ずーんとくる感じというかなんというか、批評家の都合に合わせて適当に意味の変わる意味不明なマジックワードというか。まあ、それならばそんなテキトーな用語は使わないのが誠実な態度だとか何とかありはするわけですが、それはそれとして考えてみましょう。


宮台の「意味から強度へ」ではないですが、「強度」というのは「意味」と対比して用いられたりします。論理的というか因果律的な意味合いを超えた説得力とかそういう感じ。大体、因果関係の整合性があったからといって、それがリアリティというかもっともらしさというかそういうのを担保するわけではないんですよね。むしろ、あらゆる事象が因果律的に説明できる作品というのはいかにも作り物っぽいというかとってつけたような感じがしてうそ臭い。いかにも説明臭い言い訳みたいなものです。


しかし、そのようなうそ臭さというかもっともらしさの問題というのは、構造主義的な読み方というか因果律的な筋書きを拾うような読み方では無視されてしまうわけですね。整合性があるからリアルだとか、破綻しているからリアルじゃないとかいう話になってしまう。まあ、そういう読み方で満足するならば、ぶっちゃけ粗筋をネットかどっかから拾ってくるだけで十分なわけです。


それならばということで、作品の筋立てには全然関係のない部分はどういう役割というか効果を持っているのか考えてみましょう。ここまでの議論の流れ的には、リアリティを維持するには因果関係が大事ではあるのだけれど、それが露骨に前面に出てしまうとうそ臭いので、ごまかすというか作り物臭さを薄める必要があるとか、そういう感じっぽい雰囲気です。ただ、そのような「作為を隠蔽する機能」というのが、今回の話題である「強度」とどういう関係があるのかというのはよく分らないというか、いかにも関係なさげ。というのも、「強度」というのは強さや濃密さを連想させる術語ですから、「物語の作り物臭さを薄める機能」を指す用語という感じはしません。


ロラン・バルトという有名なフランスの記号論者がいますけれど、彼は意味のない細部のもつ効果のことを「現実効果」と呼んでいます。さくっと引用してみましょう。



フローベールの晴時計、ミシュレの小さなドアは、最終的に、つぎのこと以外のことは何も告げていないのだ。すなわち、これが現実である、と。だが、そのとき意味されているのは、<<現実>>という範疇なのである(その偶発的な内容ではない)。言いかえれば、指向対象だけをあとに残す、記号内容の欠如そのものが、写実主義の記号表現そのものとなっているのだ。

物語の筋立ての進行に貢献しない表現というのは、粗筋において無意味であるゆえにこそ「現実」そのものを指し示すことになる、と。それならば、無意味な細部は因果関係の作り物臭さをごまかすものである、というよりもむしろ関係は逆なのではないかという話にもなるわけです。つまり、無意味な細部に現実を指し示させるために、その入れ物として因果関係が要請され、無意味な細部を詰め込むために筋立てが準備される。ここまでくると、完全に『悪徳の栄え』とかマルキ・ド・サドの世界ですね。ひたすらに繰り返される無神論哲学とリベルタンの饗宴。『ソドムの百二十日』になると物語の形式すら逸脱していくことになります。そして、このような傾向はサドに特有なものではなくて、百科全書的小説とかいいますけど、セルバンテスの『ドン・キホーテ』やラブレーの『ガルガンチュア』に始まって、フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』、メルヴィルの『モービィ・ディック』、ジョイスの『ユリシーズ』さらにはピンチョンの『重力の虹』にまでいたる近現代の小説のひとつの重要な潮流として存在するわけです。


ここまで確認したところで、ようやくageの話です。というか、エロゲにおける私にとっての最重要機能 −特別に貴きエロゲ−とか何でそんなにアージュが嫌いなのか?とかの話。


エロゲの日常描写はうざいとかなんとかいうことはよくあります。私もつい最近、『聖なるかな』のADVパートがうざいとか書いたばかりです。エロゲー界隈でシナリオ重視とか言っているような人たちは、やけに「必然性」とかいうのが好きですけど、そういう物語至上主義というかあらすじ至上主義みたいな考え方は、先ほど概括した「近代小説的」な考え方とはまったく異なったものです。kaien氏のよくまとまった一節を引きましょう。



 それは結局、パッケージとしての統一感のなさということに尽きると思うんです。例によってぼくは『君望』一作のことしか語れないわけですけれど、とにかくこの作品にはパッケージとしての「余剰」が多すぎる。

 具体的にいえば、茜と遥の二股で終わる結末や、愛美に監禁されて終わる結末はいったい何のためにあるのかということですね。

 この展開は作品の本筋とはまったく関係ないわけで、削っても何の問題もない。これはもう、ユーザーをいやな気分にさせるためだけにあるとしか思えない。

 べつにきれいごとの純愛ものにしろといっているわけじゃなくて、作品全体を見たときにそのエピソードを組み込む必然性があるならば、どんな展開を用いてもらってもかまわない。でも、ぼくにはその必然性は感じられないですね。



 だから、ぼくはどんなにきれい事の絵空事といわれようと、鍵とか型月とかのほうが好き。一切のきれい事抜きで凄惨な物語をつむぎ出しながらさいごには美しい結末へと導く『SWAN SONG』はもっと好き。

なんというか、ageの人はそういう「美しさ」が嫌いだからああいう風に作品を作るんだろうなぁ、という気はするんですよね、セルバンテスやフロベールがそうだったように。先ほどの「現実効果」の議論になぞらえるとすると、純愛から二股・マナマナまで詰め込むために、あの「本筋」を入れ物として作ったわけなのでしょう。だから、specificationとか何とかいって水月犬エンドをいれたり、ファンディスクで事故の起こらないシナリオを平然と作ったりするわけです。そういえば『螺旋回廊』にも何も事件の起こらないシナリオが入ってたりしましたし、今度の『マブラヴ』ファンディスクだっていろいろとアレな感じです。


ぶっちゃけた話、age嫌いの話というのは、物語/小説あるいはロマン主義/リアリズムの対立という古式ゆかしいというかおなじみの対立構造のエロゲ版といった感じです。TypeMoonやKeyがどちらかといえばロマン主義・物語寄りだとすると、ageは明らかにリアリズム・小説寄りという見立て。ペトロニウス氏は



僕は、いつも物語を読むときに、「あるべき物語の姿」ってのを思い浮かべます。なんというか、、、、ある世界があって、そこにある人格があって、、、そして、、、そこの「もう一つの世界」が立ち上がった瞬間に、ものごとは「かくあるべく」あるべきすがたに収束していく・・・・・



その「あるべきもの」が、「あるべきところにおさまる」のが、物語ってやつなんだと思います。


これは、物語の土台が、一貫性を持った思想で貫かれているからこそ起きる感情であって、、、、分岐の分まで、生理的に嫌悪も快楽すべて描いてしまっている「きみのぞ」の脚本構造ではありえない感情だと思う。本当は



ほとんど分岐はいらないのだと思う。



水月と遥だけで十分だと思うよ。



その可能性をすべて描いてしまうところに、品のなさというか、、、そういう部分を感じてしまうというのは理解できる。

と書いていますが、まあそのとおりですよね。物語愛好者にとっては、「本筋」を入れ物として扱うようなageのというか『君のぞ』の作風が我慢ができない。まあ、「その可能性をすべて描いてしまう」品のなさが小説的というか百科全書的というかそういう欲望というか快楽なんだと私なんかは思うわけですね。それは別にageが単に節操がないとかそういう話ではなくて、ペトロニウス氏風に言うと、ageの「思想」は一貫性というよりもバフチン的な多声性というか、雑多な物語を生成する場所を提示するというところにあるのです。さらにアレな話をすれば、そのような猥雑さの快楽というのは、最近のエロゲ界隈においては凌辱ゲー以外にはageぐらいにしか存在しないという摩訶不思議な状況が「気持ち悪い」というか勘弁してほしいというのが私の正直なところ。むしろ、そのようなエロゲ界隈の状況の偏りというか傾向がageの作品を「気持ち悪」くしているのではないかと。

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最近

64bitのvistaを入れたのでというか、メモリがあほみたいに安くて一台組んだので設定やら何やらで遊んでいて眠いというか夜更かししすぎで昼間死ぬということでこんな時間に更新。というか、紙copi liteとかBeckyの深海魚フィルタとかが動かなくて死にそうなんですが、ある意味。『触区』というかアルファが基本的に動かないっぽいですね。VirtualPCで動かしたらいまいち安定しないというか音が飛ぶし。ちなみに『触区』は終わったので今週末までにレビュー書きます。

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2007年05月20日

『胎辱の檻』レビューアップ

『胎辱の檻』レビューアップしました。何か『凌辱の連鎖』を髣髴とさせる感じの作品でしたね。良作です。

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『聖なるかな』体験版

聖なるかな』(xuse)の体験版がきましたね。ついでに発売延期も。とりあえず体験版やった感想としては、ADVパートが非常にかったるそうです。

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2007年05月18日

『肛戒』情報公開

BLACK PACKAGE TRY新作『肛戒』の情報が公開されています。『肛』シリーズの新しい奴ですが、今回は天野雨乃ではないんですね。

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『王賊』体験版

ソフトハウスキャラ新作『王賊』体験版がきています。結構楽しみな感じですね。

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○んことくらそう

独り言以外の何かより、「1文字違いで萎える(ギャルゲー)」 のコメント。

「○んことくらそう」と書くと何だか放送禁止な感じに。

まあ、ありがちなネタですが、真っ先に「う」が思い浮かんだTRY信者は静かに挙手しましょう。無論、私はそれ以外思いもよりませんでしたが。

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2007年05月12日

『彗聖天使プリマヴェールZwei』情報更新

エスクード新作『彗聖天使プリマヴェールZwei』の情報が更新されています。前作とのつながりはないっぽい雰囲気ですが、とりあえず期待。

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なぜエロゲーには個性もオリジナリティもないのか

モノーキーの思い出せない。イメージに向かって邁進する姿勢は彫刻に似てる。という記事。

この文章を読んで「ギリシア時代だか昔の職人がイスを作る時に設計図を使わなくて頭の中のイスというイメージに向かってイスを作っている」みたいなweb上の文章を思い出したけれど、どこに書いてあったか思い出せない。

この元ネタは知りませんが、似たような話というか何というか。

トルコにオルハン・パムクという小説家がいます。2006年にノーベル文学賞をとった人ですね。その人の代表的な作品として、というか数少ない日本語に翻訳されている作品の一つとして『私の名は紅』という作品があります。舞台は16世紀から17世紀ぐらいのトルコ。優秀な細密画師が殺害され、その犯人を捜さなければならない、というのが基本的な筋立て。西洋から近代文化が流れ込んできて、大きく変動しようとする社会的な状況、その中でもこの作品ではミニアチュールというか芸術の状況が描かれています。

細密画というと、高校の世界史の資料集とかでしか見たことがない人がほとんどではないかと思いますが、この辺のサイトでも参照してください。遠近法とか全然ないのっぺりした、いかにも中世といった感じのやつですね。パムクは細密画と西洋風の近代絵画を比較してこういうことを書いています。

細密画というのは「神の見た世界」を書こうとするものです。個性とかいうのはただの欠陥であり、実物を見て正確にデッサンすることすらしない。というのも、実物というのは細密画師が見たものであって、「神」が見たものではないからです。人間なり動物なり作品に描かれる対象は、普通に実在する人間や動物ではなくて、「神の見た」人間なり動物であるわけで、普遍的なイデアであるべきものです。先人の描いた美しい細密画を模倣し、「神の視点」から物事を描こうとする行為を積み重ねることによって、「神の視点」に忠実に絵が描けるようになる、という芸術観。非常に典型的な一節を引きます。

確かにわたしは盲目です。しかしこの十一年間挿絵を描いた写本の美しさの全てを、全ての線を、全ての筆運びを記憶しています。見ないでも、手が全てをそらで描くことができます。殿、あなた様にこれまでで一番美しい写本を描くことができます。なぜなら目がもうこの世の穢れに惑わされることがないので、アラーの神の全ての栄光を記憶からもっとも純粋な形で描くことができるからです

一方で、近代絵画は「人間の見た世界」を描こうとするものです。遠近法というのが非常に典型的ですが、ようするに、視点人物の存在が前提とされているわけです。そのため、絵に描かれる人間なり事物なりはただ一つしかないユニークでオリジナルなものであり、そこには世界を遠近法的に見る人間=画家がいる、と。細密画的な世界は「神」の見た世界ですから、特定の視点から物事を見たりはしないわけですよ。神はどこにでもあまねく存在してあらゆるものを知っているということになっているわけですから。遠くのものが小さく見えたり物事が陰に隠れて見えなかったりもしない。全てが同じようにありのままに見える。そのため、細密画の立場からすると遠近法なんかは論外というかありえない方法です。

「神の視点」から見ると、あらゆる物事ははっきりとした区分を持つ確固とした存在です。繰り返しますが、神はあらゆるもののありのままの形を知っているわけですから、全てのものははっきりと理解されたものである、と。一方で、「人間の視点」からみると、あらゆる物事は曖昧で無定形なものに見えます。同じものでも場所や時間や見ている人の気分によっては全然違うように見え、というか幽霊とかUFOみたいにも見えるわけです。そして当たり前のように、人によって物事はまったく違うように見える。そのような曖昧でよく分らないものであることを前提として世界を描こうとするのが近代絵画というわけです。

ここには不思議な逆説があります。常識的というか普通に考えると、物事がはっきりした存在として見えるからこそ、その中に個性なりオリジナリティなりを見出すという話になるわけです。しかし、上記の議論ではそのようになりません。世界を普遍的な視点から見ると、物事は確固とした存在として見えるけれども、個性もオリジナリティもない。一方で、世界を特定の視点から見ると、物事は曖昧模糊としているけれども、ユニークでオリジナルなものに見える。また、ぶっちゃけた話、現代を生きる私などから見ると、近代絵画よりもミニアチュールの方が普通に曖昧模糊に見えるわけですね。この辺は、完全に近代絵画的な世界が前提としてある中を生きているからという話であるわけでしょうけれど。

細密画と近代絵画の違いというのは、その作品において描かれるのが誰の見た世界であるのかというところにあります。細密画は「神」の見た世界を描き、近代絵画は「人間」の見た世界を描く。誰の視点から描くのかによって、作品はまったく変わるわけです。これはもちろん絵画のみに適用されることではなくて、小説やエロゲーなど他の芸術ジャンルでも同じことがいえるでしょう。

エロゲーが描くのは「エロゲヲタから見た」世界というよりもむしろ、「エロゲヲタの妄想した」世界といった感じがしますが、エロゲもあらゆるエンタテイメントがそうであるように、消費者を想定した上で作られているわけです、おそらく。どちらにしても、視点は「人間」のものであるのは近代絵画なんかと同じでしょう。しかし、そのような消費者志向というかエンタテイメント志向の作品というのは、近代的な「人間の見た世界」を描く作品よりもむしろ、「神の見た世界」を描く作品に近いところがある気がするのも確かです。

エロゲーの判子絵師は「神の視点」から描いているから全てが判子に見えるのだとか何とかというのは与太話ですが、消費者を視点に想定するということは、その消費者の視点というのが作り手にとって明らかであるという前提があるわけです。当たり前ですが、そのような前提なしに、消費者の視点も糞もないわけですから。これは確かに、細密画師が神の視点を想定して描いているという構図と類似しています。消費者の視点も神の視点も想定されたものでしかないがゆえにこそ、全能の視点となる。近代絵画における「人間の視点」というのは画家の視点なわけです、大体は。一方で、エロゲーにおける「人間の視点」というのは創作者の視点ではなく消費者であるところの「エロゲーヲタ」の視点です。先ほど引用した細密画師の台詞をエロゲンガーの台詞として書き換えてみても、さほど違和感はないのではないでしょうか。

確かにわたしは盲目です。しかしこの十一年間CGを描いたエロゲーの美しさの全てを、全ての線を、全ての筆運びを記憶しています。見ないでも、手が全てをそらで描くことができます。殿、あなた様にこれまでで一番美しいエロゲーを描くことができます。なぜなら目がもうこの世の穢れに惑わされることがないので、エロゲヲタの妄想の全ての栄光を記憶からもっとも純粋な形で描くことができるからです

要するに、エロゲーヲタは細密画師における神である、と。そう考えると、エロゲーのヒロインなり物語なりが記号的で無個性であるというよくある指摘も納得ができるわけです。上述したように、「神の視点」から見ると個性もオリジナリティもないわけですから。まあ、エロゲヲタは神のような普遍的な存在としては想定されないので、想定されるエロゲヲタ像は人によっても時代によっても異なります。そのため、創作も理想のエロゲヲタの妄想のイデアに近づいていくというよりもむしろ、その時々のエロゲヲタ像に合わせて変化するわけです。

最後にまとめましょう。細密画と近代絵画の違いは誰の見た世界を描くかによって異なります。細密画は「神の見た世界」を描き、近代絵画は「人間の見た世界」を描く。細密画は個性もオリジナリティもない普遍的な世界を描き、近代絵画は個性もオリジナリティもある曖昧で不定形な世界を描く。一方で、現代のエロゲーをはじめとするエンタテイメントは「人間の見た世界」を描いているにもかかわらず、その人間を消費者として想定することで、細密画における神のように扱っている。そのため、そこでは個性もオリジナリティも消滅し、作品はその時々の消費者像によって変化するだけである、ということになります。

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2007年05月06日

『魔が堕ちる夜』レビューアップ

『魔が堕ちる夜』レビューアップしました。GWは積みゲを崩す予定だったんですが、色々あってそれほど進みませんでした。今はブラパのやつをやってます。

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2007年05月05日

『催眠術2』情報

BLACK RAINBOW新作『催眠術2』の情報が公開されています。村越モノ待望の新作ですね。夏ごろということでとりあえず期待。

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「独り言」の倫理

cogni氏の 批評関係の雑感という記事。こういう反応があるのはうれしいですね。わざわざ時間をかけて書いた甲斐があります。

んでその記事の中で、cogni氏は小林秀雄を引き合いに出しつつこういうことを書いています。

そのせいか最近、私は丁寧語で書いている作品についての言説は余り信じられなくなってきている。丁寧語で書くということは、そこにはその文章を読む読者が想定され、更にその読者は「話せば解る他者」という想定がなされているだろうから。・・・試行錯誤していれば、文章ですらほとんど内言のようになり、必然的に丁寧語の選択肢は消えていくはずだと思う。もちろん人に自らの意見を伝えることを主目的とした文章ならば丁寧語を使うべきでしょうが、小林的な批評を目指すなら使うべきではないだろう。

批評が読者を前提とするのは、小説が読者を前提にするのと同じくらい当たり前のような気がしなくもないわけですが、cogni氏の言わんとすることも分らないわけではないというのが今回の話。

柳瀬尚紀というある意味有名な翻訳家がいます。『フィネガンズ・ウェイク』という恐ろしく難解な作品の全訳をしたひとですね。『ユリシーズ』翻訳の続きを出すつもりがあるのかどうかが気になるところですが、それはそれとして、柳瀬は『フィネガン辛航紀』という『フィネガンズ・ウェイク』関係を中心としたエッセーとかインタビューとか対談を集めた本を出しています。んで、その中でこういうことを書いているというか、インタビューで話しています。

普通の、決まりきったステレオタイプの言葉や紋切り型となってしまった日常会話。日常会話以外でも、何か意味のあることをしゃべろうとすると、ほとんど紋切り型になりますよね。そういう、決まりきったものでないものを求めようとする気持が、一部の詩人だけではなく、人間一般の精神活動のどこかにあるのではないかと思います。
『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳していくと、自分でも何を言っているのか定かでないような言葉を作り続けるわけです。
これは、完璧に独り言なんです。その「独り言」を、幸い、いろいろな人に読んでいただいている。
言葉というのは、一度、完璧な独り言に戻らなければならないのではないか。『フィネガンズ・ウェイク』でジョイスがやろうとしたことは、辞書からも逃れること、といいますか、印刷される本――彼は、この『フィネガンズ・ウェイク』のことを単なる「本」としか言っていません――にあるような言葉ではなくて、古代の言葉に回帰するようなことではないかと思いますね。
人に向かってしゃべるということは、文節化、"articulate"するということですから、何か言葉の持つ力を薄めてしまうというか、一義的意味を確定できるようにしていかなければならない。何かを言うときに、いっぺんにいろいろなことを言おうとすると、それは「独り言」になるんですね。

引用長すぎですが、言ってることは普通に分るでしょう。他人に分るように書くというのは要するに思考を制度化するというか、紋切り型に当てはめることです。そのような制度化によって切り捨てられてしまうような独り言をかき集めるようにして、ジョイスは『ユリシーズ』なり『フィネガンズ・ウェイク』なりを書いた。ジョイスは新聞の広告から何から何まで資料を収集してというかダブリンから送ってもらって小説を書くわけです。んで、もしダブリンが消滅したとしても『ユリシーズ』さえあれば3日で元通りにすることが出来るとかなんとか言う。それは単にダブリンについて緻密に調べたということではなくて、ダブリンの全体を、そこに含まれる互いに矛盾するようなというかほとんどどうでもいいような「独り言」をも含めて「ありのままに」書き込んだということであるわけです。

まあ、あらゆる書き手に「ジョイス語」みたいな言語を駆使して思考を「ありのままに」書き込まれても困るわけですが、というか、普通に意味不明ですが、そういう「独り言」を抹殺しないようにしながら読むなり書くなりするのがよろしいというか、したいとは思いますかね。批評の話というところでいうと、作品を既存の理論やら何やらに当てはめるだけではなくて、前回書いたように、定型化しようとする行為自体がむしろ作品の固有性を暴き出すというか、そこまで行ってようやく批評とか何とかという話になるわけです。えらそうなことを書いてますが、簡単なことではまったくないというかほとんど理不尽ですらあるというのが実際のところなので色々ときついわけですが。

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2007年05月01日

『悪鎖』情報更新

sukaradog新作『悪鎖』情報が更新されています。マスコットキャラが微妙すぎですが、シナリオは嘘屋佐々木ということで注目。

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『触区』デモ公開

Lusterise新作『触区』のデモが来ています。とりあえず今のところ不安材料がまったくないのが逆に怪しいぐらいですね。

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批評の快楽、あるいは小説の歓喜を無限に味わうために

なんかごく一部の界隈ではお約束の「批評」にまつわる議論が喧しいわけですが、関係のありそうでなさそうなことでも書いておきます。

いわゆるナラトロジーの代表的な理論家にジェラール・ジュネットという人がいます。プルーストの小説を素材として使った『物語のディスクール』という本が有名ですね。何か、普通に読むと作品の語り方というか、ジュネット風にいうとディスクールを分類して分析しているという教科書っぽい雰囲気の本なんですが、そのような分析的な方法によって、プルーストの物語り方の独自性というか、もっとはっきりと書くと『失われた時』の異様さがあぶりだされてくるという作りになっていて、そこら辺の出来の悪い推理小説よりも全然スリリングで面白い。

んで、そのジュネットは文学理論には2種類あるんだ、ということをいっています。一つ目は、対象となる作品のユニークさ・オリジナリティを論証しようとする「批評」で、もう一つは、個々の作品を分析することによって文学の普遍的な法則を探求しようとする「詩学」です。

「批評」というのは、まあ普通というかよくあるやつですね。たとえば、『螺旋回廊』はまだアンダーグラウンドな感じが強かった頃のインターネットを素材とすることで、他の凌辱ゲームには見られないほど犯罪的・背徳的な作品に仕上がっているとか、そういうの。もう一方の「詩学」というのは、まあ当然のごとくアリストテレス由来の用語ですが、ヒロインを殺すと簡単に感動させることが出来るとか、外面はツンツンしているのに二人っきりになるとデレるキャラは萌えるとか、そういうのです。

ジュネットはナラトロジーというのは物語の「詩学」であるとかいうわけですが、その代表的な成果である『物語のディスクール』がそうであるように、一般的法則を導き出そうとすることによって、対象となる作品の特異性がむしろ強く暴き出されるというのはあるのでしょう。まあ、法則を整えればそれだけ逸脱している部分が目に付くという感じでしょうか。ジュネットは『物語の詩学』のあとがきにおいて、理論を整えることによって「詩学は、その(いまだ書かれていない作品の:引用者注)潜在的可能性を、とりわけその探索の一般性によって発見しかつ指し示す」とか書いています。何というか、理論的には存在してもおかしくない作品とかなんとか、理論物理学者かよ、みたいな感じですが、ジュネット熱血すぎです。もう一節『物語の詩学』から引きます。

批評家たちは、いままで、文学を解釈することしかしてこなかった。いまや、文学を変革することが問題なのである。これはたしかに、詩学研究者だけの仕事ではない。実際、そこにおいて彼らの果たしうる役割など、おそらくはたかの知れたものにすぎないだろう。けれども、それが実践を創出することに役立たないとしたら、理論などというものに、いったいどんな値打ちがあるだろうか?

私はジュネットほど熱血ではないので、小説なりエロゲなりをより面白く読むために、知っていると便利なことがないわけでもないとかそういう感じです。まあ、一つの作品でも読み方によって全然違う側面を見せることがあるということを知るだけでも、十分面白いのではないでしょうかね。

「この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし」というのは『ハックルベリーフィン』の冒頭に掲げられたあまりにも有名な一節ですが、この『ハックルベリーフィン』こそがアメリカ文学最高傑作のひとつとしてマーク・トウェインの中ではおそらく最も批評家受けのいい作品であるというのは、どういうことを意味しているのか。答えなんか当然ないわけですが、「小説の歓喜を無限に味わうために 次の小説のために次の次の小説のために」というやつじゃないですかね、『ヘルシング』の某デブ少佐風にいえば。

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Google,Yahoo,MSNで「パラダイム」と検索すると

googleがエロゲに汚染されているとかなんとか言いますが、「パラダイム」でgoogle、yahoo、msnを検索するとエロゲーノベライズで有名なところが一番に出てきます……googleYahooMSN。クーンもびっくりというか、少なくとも私はかなりびっくりというか唖然としました。

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