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2007年05月01日

批評の快楽、あるいは小説の歓喜を無限に味わうために

なんかごく一部の界隈ではお約束の「批評」にまつわる議論が喧しいわけですが、関係のありそうでなさそうなことでも書いておきます。

いわゆるナラトロジーの代表的な理論家にジェラール・ジュネットという人がいます。プルーストの小説を素材として使った『物語のディスクール』という本が有名ですね。何か、普通に読むと作品の語り方というか、ジュネット風にいうとディスクールを分類して分析しているという教科書っぽい雰囲気の本なんですが、そのような分析的な方法によって、プルーストの物語り方の独自性というか、もっとはっきりと書くと『失われた時』の異様さがあぶりだされてくるという作りになっていて、そこら辺の出来の悪い推理小説よりも全然スリリングで面白い。

んで、そのジュネットは文学理論には2種類あるんだ、ということをいっています。一つ目は、対象となる作品のユニークさ・オリジナリティを論証しようとする「批評」で、もう一つは、個々の作品を分析することによって文学の普遍的な法則を探求しようとする「詩学」です。

「批評」というのは、まあ普通というかよくあるやつですね。たとえば、『螺旋回廊』はまだアンダーグラウンドな感じが強かった頃のインターネットを素材とすることで、他の凌辱ゲームには見られないほど犯罪的・背徳的な作品に仕上がっているとか、そういうの。もう一方の「詩学」というのは、まあ当然のごとくアリストテレス由来の用語ですが、ヒロインを殺すと簡単に感動させることが出来るとか、外面はツンツンしているのに二人っきりになるとデレるキャラは萌えるとか、そういうのです。

ジュネットはナラトロジーというのは物語の「詩学」であるとかいうわけですが、その代表的な成果である『物語のディスクール』がそうであるように、一般的法則を導き出そうとすることによって、対象となる作品の特異性がむしろ強く暴き出されるというのはあるのでしょう。まあ、法則を整えればそれだけ逸脱している部分が目に付くという感じでしょうか。ジュネットは『物語の詩学』のあとがきにおいて、理論を整えることによって「詩学は、その(いまだ書かれていない作品の:引用者注)潜在的可能性を、とりわけその探索の一般性によって発見しかつ指し示す」とか書いています。何というか、理論的には存在してもおかしくない作品とかなんとか、理論物理学者かよ、みたいな感じですが、ジュネット熱血すぎです。もう一節『物語の詩学』から引きます。

批評家たちは、いままで、文学を解釈することしかしてこなかった。いまや、文学を変革することが問題なのである。これはたしかに、詩学研究者だけの仕事ではない。実際、そこにおいて彼らの果たしうる役割など、おそらくはたかの知れたものにすぎないだろう。けれども、それが実践を創出することに役立たないとしたら、理論などというものに、いったいどんな値打ちがあるだろうか?

私はジュネットほど熱血ではないので、小説なりエロゲなりをより面白く読むために、知っていると便利なことがないわけでもないとかそういう感じです。まあ、一つの作品でも読み方によって全然違う側面を見せることがあるということを知るだけでも、十分面白いのではないでしょうかね。

「この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし」というのは『ハックルベリーフィン』の冒頭に掲げられたあまりにも有名な一節ですが、この『ハックルベリーフィン』こそがアメリカ文学最高傑作のひとつとしてマーク・トウェインの中ではおそらく最も批評家受けのいい作品であるというのは、どういうことを意味しているのか。答えなんか当然ないわけですが、「小説の歓喜を無限に味わうために 次の小説のために次の次の小説のために」というやつじゃないですかね、『ヘルシング』の某デブ少佐風にいえば。

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