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2007年05月05日

「独り言」の倫理

cogni氏の 批評関係の雑感という記事。こういう反応があるのはうれしいですね。わざわざ時間をかけて書いた甲斐があります。

んでその記事の中で、cogni氏は小林秀雄を引き合いに出しつつこういうことを書いています。

そのせいか最近、私は丁寧語で書いている作品についての言説は余り信じられなくなってきている。丁寧語で書くということは、そこにはその文章を読む読者が想定され、更にその読者は「話せば解る他者」という想定がなされているだろうから。・・・試行錯誤していれば、文章ですらほとんど内言のようになり、必然的に丁寧語の選択肢は消えていくはずだと思う。もちろん人に自らの意見を伝えることを主目的とした文章ならば丁寧語を使うべきでしょうが、小林的な批評を目指すなら使うべきではないだろう。

批評が読者を前提とするのは、小説が読者を前提にするのと同じくらい当たり前のような気がしなくもないわけですが、cogni氏の言わんとすることも分らないわけではないというのが今回の話。

柳瀬尚紀というある意味有名な翻訳家がいます。『フィネガンズ・ウェイク』という恐ろしく難解な作品の全訳をしたひとですね。『ユリシーズ』翻訳の続きを出すつもりがあるのかどうかが気になるところですが、それはそれとして、柳瀬は『フィネガン辛航紀』という『フィネガンズ・ウェイク』関係を中心としたエッセーとかインタビューとか対談を集めた本を出しています。んで、その中でこういうことを書いているというか、インタビューで話しています。

普通の、決まりきったステレオタイプの言葉や紋切り型となってしまった日常会話。日常会話以外でも、何か意味のあることをしゃべろうとすると、ほとんど紋切り型になりますよね。そういう、決まりきったものでないものを求めようとする気持が、一部の詩人だけではなく、人間一般の精神活動のどこかにあるのではないかと思います。
『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳していくと、自分でも何を言っているのか定かでないような言葉を作り続けるわけです。
これは、完璧に独り言なんです。その「独り言」を、幸い、いろいろな人に読んでいただいている。
言葉というのは、一度、完璧な独り言に戻らなければならないのではないか。『フィネガンズ・ウェイク』でジョイスがやろうとしたことは、辞書からも逃れること、といいますか、印刷される本――彼は、この『フィネガンズ・ウェイク』のことを単なる「本」としか言っていません――にあるような言葉ではなくて、古代の言葉に回帰するようなことではないかと思いますね。
人に向かってしゃべるということは、文節化、"articulate"するということですから、何か言葉の持つ力を薄めてしまうというか、一義的意味を確定できるようにしていかなければならない。何かを言うときに、いっぺんにいろいろなことを言おうとすると、それは「独り言」になるんですね。

引用長すぎですが、言ってることは普通に分るでしょう。他人に分るように書くというのは要するに思考を制度化するというか、紋切り型に当てはめることです。そのような制度化によって切り捨てられてしまうような独り言をかき集めるようにして、ジョイスは『ユリシーズ』なり『フィネガンズ・ウェイク』なりを書いた。ジョイスは新聞の広告から何から何まで資料を収集してというかダブリンから送ってもらって小説を書くわけです。んで、もしダブリンが消滅したとしても『ユリシーズ』さえあれば3日で元通りにすることが出来るとかなんとか言う。それは単にダブリンについて緻密に調べたということではなくて、ダブリンの全体を、そこに含まれる互いに矛盾するようなというかほとんどどうでもいいような「独り言」をも含めて「ありのままに」書き込んだということであるわけです。

まあ、あらゆる書き手に「ジョイス語」みたいな言語を駆使して思考を「ありのままに」書き込まれても困るわけですが、というか、普通に意味不明ですが、そういう「独り言」を抹殺しないようにしながら読むなり書くなりするのがよろしいというか、したいとは思いますかね。批評の話というところでいうと、作品を既存の理論やら何やらに当てはめるだけではなくて、前回書いたように、定型化しようとする行為自体がむしろ作品の固有性を暴き出すというか、そこまで行ってようやく批評とか何とかという話になるわけです。えらそうなことを書いてますが、簡単なことではまったくないというかほとんど理不尽ですらあるというのが実際のところなので色々ときついわけですが。

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