2007年05月12日
なぜエロゲーには個性もオリジナリティもないのか
モノーキーの思い出せない。イメージに向かって邁進する姿勢は彫刻に似てる。という記事。
この文章を読んで「ギリシア時代だか昔の職人がイスを作る時に設計図を使わなくて頭の中のイスというイメージに向かってイスを作っている」みたいなweb上の文章を思い出したけれど、どこに書いてあったか思い出せない。
この元ネタは知りませんが、似たような話というか何というか。
トルコにオルハン・パムクという小説家がいます。2006年にノーベル文学賞をとった人ですね。その人の代表的な作品として、というか数少ない日本語に翻訳されている作品の一つとして『私の名は紅』という作品があります。舞台は16世紀から17世紀ぐらいのトルコ。優秀な細密画師が殺害され、その犯人を捜さなければならない、というのが基本的な筋立て。西洋から近代文化が流れ込んできて、大きく変動しようとする社会的な状況、その中でもこの作品ではミニアチュールというか芸術の状況が描かれています。
細密画というと、高校の世界史の資料集とかでしか見たことがない人がほとんどではないかと思いますが、この辺のサイトでも参照してください。遠近法とか全然ないのっぺりした、いかにも中世といった感じのやつですね。パムクは細密画と西洋風の近代絵画を比較してこういうことを書いています。
細密画というのは「神の見た世界」を書こうとするものです。個性とかいうのはただの欠陥であり、実物を見て正確にデッサンすることすらしない。というのも、実物というのは細密画師が見たものであって、「神」が見たものではないからです。人間なり動物なり作品に描かれる対象は、普通に実在する人間や動物ではなくて、「神の見た」人間なり動物であるわけで、普遍的なイデアであるべきものです。先人の描いた美しい細密画を模倣し、「神の視点」から物事を描こうとする行為を積み重ねることによって、「神の視点」に忠実に絵が描けるようになる、という芸術観。非常に典型的な一節を引きます。
確かにわたしは盲目です。しかしこの十一年間挿絵を描いた写本の美しさの全てを、全ての線を、全ての筆運びを記憶しています。見ないでも、手が全てをそらで描くことができます。殿、あなた様にこれまでで一番美しい写本を描くことができます。なぜなら目がもうこの世の穢れに惑わされることがないので、アラーの神の全ての栄光を記憶からもっとも純粋な形で描くことができるからです
一方で、近代絵画は「人間の見た世界」を描こうとするものです。遠近法というのが非常に典型的ですが、ようするに、視点人物の存在が前提とされているわけです。そのため、絵に描かれる人間なり事物なりはただ一つしかないユニークでオリジナルなものであり、そこには世界を遠近法的に見る人間=画家がいる、と。細密画的な世界は「神」の見た世界ですから、特定の視点から物事を見たりはしないわけですよ。神はどこにでもあまねく存在してあらゆるものを知っているということになっているわけですから。遠くのものが小さく見えたり物事が陰に隠れて見えなかったりもしない。全てが同じようにありのままに見える。そのため、細密画の立場からすると遠近法なんかは論外というかありえない方法です。
「神の視点」から見ると、あらゆる物事ははっきりとした区分を持つ確固とした存在です。繰り返しますが、神はあらゆるもののありのままの形を知っているわけですから、全てのものははっきりと理解されたものである、と。一方で、「人間の視点」からみると、あらゆる物事は曖昧で無定形なものに見えます。同じものでも場所や時間や見ている人の気分によっては全然違うように見え、というか幽霊とかUFOみたいにも見えるわけです。そして当たり前のように、人によって物事はまったく違うように見える。そのような曖昧でよく分らないものであることを前提として世界を描こうとするのが近代絵画というわけです。
ここには不思議な逆説があります。常識的というか普通に考えると、物事がはっきりした存在として見えるからこそ、その中に個性なりオリジナリティなりを見出すという話になるわけです。しかし、上記の議論ではそのようになりません。世界を普遍的な視点から見ると、物事は確固とした存在として見えるけれども、個性もオリジナリティもない。一方で、世界を特定の視点から見ると、物事は曖昧模糊としているけれども、ユニークでオリジナルなものに見える。また、ぶっちゃけた話、現代を生きる私などから見ると、近代絵画よりもミニアチュールの方が普通に曖昧模糊に見えるわけですね。この辺は、完全に近代絵画的な世界が前提としてある中を生きているからという話であるわけでしょうけれど。
細密画と近代絵画の違いというのは、その作品において描かれるのが誰の見た世界であるのかというところにあります。細密画は「神」の見た世界を描き、近代絵画は「人間」の見た世界を描く。誰の視点から描くのかによって、作品はまったく変わるわけです。これはもちろん絵画のみに適用されることではなくて、小説やエロゲーなど他の芸術ジャンルでも同じことがいえるでしょう。
エロゲーが描くのは「エロゲヲタから見た」世界というよりもむしろ、「エロゲヲタの妄想した」世界といった感じがしますが、エロゲもあらゆるエンタテイメントがそうであるように、消費者を想定した上で作られているわけです、おそらく。どちらにしても、視点は「人間」のものであるのは近代絵画なんかと同じでしょう。しかし、そのような消費者志向というかエンタテイメント志向の作品というのは、近代的な「人間の見た世界」を描く作品よりもむしろ、「神の見た世界」を描く作品に近いところがある気がするのも確かです。
エロゲーの判子絵師は「神の視点」から描いているから全てが判子に見えるのだとか何とかというのは与太話ですが、消費者を視点に想定するということは、その消費者の視点というのが作り手にとって明らかであるという前提があるわけです。当たり前ですが、そのような前提なしに、消費者の視点も糞もないわけですから。これは確かに、細密画師が神の視点を想定して描いているという構図と類似しています。消費者の視点も神の視点も想定されたものでしかないがゆえにこそ、全能の視点となる。近代絵画における「人間の視点」というのは画家の視点なわけです、大体は。一方で、エロゲーにおける「人間の視点」というのは創作者の視点ではなく消費者であるところの「エロゲーヲタ」の視点です。先ほど引用した細密画師の台詞をエロゲンガーの台詞として書き換えてみても、さほど違和感はないのではないでしょうか。
確かにわたしは盲目です。しかしこの十一年間CGを描いたエロゲーの美しさの全てを、全ての線を、全ての筆運びを記憶しています。見ないでも、手が全てをそらで描くことができます。殿、あなた様にこれまでで一番美しいエロゲーを描くことができます。なぜなら目がもうこの世の穢れに惑わされることがないので、エロゲヲタの妄想の全ての栄光を記憶からもっとも純粋な形で描くことができるからです
要するに、エロゲーヲタは細密画師における神である、と。そう考えると、エロゲーのヒロインなり物語なりが記号的で無個性であるというよくある指摘も納得ができるわけです。上述したように、「神の視点」から見ると個性もオリジナリティもないわけですから。まあ、エロゲヲタは神のような普遍的な存在としては想定されないので、想定されるエロゲヲタ像は人によっても時代によっても異なります。そのため、創作も理想のエロゲヲタの妄想のイデアに近づいていくというよりもむしろ、その時々のエロゲヲタ像に合わせて変化するわけです。
最後にまとめましょう。細密画と近代絵画の違いは誰の見た世界を描くかによって異なります。細密画は「神の見た世界」を描き、近代絵画は「人間の見た世界」を描く。細密画は個性もオリジナリティもない普遍的な世界を描き、近代絵画は個性もオリジナリティもある曖昧で不定形な世界を描く。一方で、現代のエロゲーをはじめとするエンタテイメントは「人間の見た世界」を描いているにもかかわらず、その人間を消費者として想定することで、細密画における神のように扱っている。そのため、そこでは個性もオリジナリティも消滅し、作品はその時々の消費者像によって変化するだけである、ということになります。
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