2007年07月15日
オタク文化としてのライトノベル
ライトノベルの文体の話が一部で盛り上がってますね。元はポスト〈セカイ系〉としての『ギートステイト』と、ライトノベル作家の文体についての疑問という記事でしょうか。
まあ、最初に端的に元も子もない話をしてしまえば、文章に凝ることの出来る時間がないというのがあるわけでしょう。mot justeとかいって、ひとつの言葉をひねり出すために丸一日とか平気でかけていたフロベールは『ボヴァリ夫人』を5年ぐらい使って書いていますし、『フィネガンズ・ウェイク』を書くのにジョイスはなんと17年もかけています。現代作家でも、ピンチョンとかギャディスなんかは10年とか平気で使うわけですね。そういうのと比べて、ライトノベル作家は普通に1年に何冊も小説を書く人もいるぐらいですから、単純に使える時間が少ないわけで、その限られた時間で読ませる文章を書く方法として、いわゆる「ラノベ的」な文体が編み出されたというのがあるのではないかと思うわけです。
文体の話とかになると、すぐ大衆小説は娯楽だから読みやすい文体で純文学は芸術だから典雅な文体だとかいう話になるわけですが、実際のところというか当然ながらそんなことはまったく無いというかそういう簡単な話ではないのです。日本の近代小説だと、簡潔な文体の作家として有名な人には志賀直哉がいます。彼はあらゆる無駄な表現を徹底的に切り詰めることでよく知られていて、取り合えず恐ろしく巧く小説を書く。一方で、典雅な文体で書く作家には、谷崎潤一郎なんかがいるわけでしょう。彼の書く文章はどれも基本的にとても息が長く、ごてごてで耽美な感じです。
この二人の作家は非常に典型的ですが、簡潔に書いたほうが読みやすく、典雅に書いたほうが読みづらいというわけでもないんですよね。志賀直哉の文章は切り詰められていて映像を喚起させるような表現が非常に美しいわけですが、注意していないとなかなかちゃんと読めないというか、何がなんだかよくわからない。一方で、谷崎の文章は非常に雄弁でテンポがいいので、文字がぎっしり詰まっていてもいつの間にか平気で10数ページ読んでいたりするわけです。
まあ、そうなるとライトノベルという括りで文体について考えることにどれだけ意味があるのかというのがあるわけですが、ここで、ライトノベルというのがいわゆるオタク文化の一部であるということに注目してみましょう。オタク文化といっても色々あるわけですが、その中で物語を語るものとしてはアニメとか漫画とか、まあエロゲとかあります。ライトノベルはそれらのオタク的作品を文化的背景として持っている小説群であると考えることが出来る。
漫画とかアニメには基本的に文体の問題というのはありません。「語り」という話になるとまた別ですが、基本的に物語を語る機能を持つのは語り手ではなく、それらの機能はコマ割りだとかシステムの問題へと大部分が委譲される。基本的に文章によって物語られているエロゲも紙芝居なのでその傾向はあって、背景CGやエフェクト、よく動く立ち絵などに描写する機能は移されていき、無個性な主人公とか何とか、語り手とかどうでもよくなってくる。
そんな中で、ライトノベルというのは小説なので、いやでも語り手がしゃしゃり出てきたりするわけです。エロゲをそのまま小説に起こしても、全然同じものにはならないですし、逆もまた然り。まあ、これはほかのどのジャンルにおいてもいえることではありますが、「語る」ためのインターフェースが異なるメディアから作品を変換する場合、その点で興味深いケースとして、ミルフィーユ何かが最近出している、二次元ドリームノベルズの小説ををエロゲー化した作品があります。これらの作品は、基本的に原作の作者がライターとしてエロゲー向けに作品を書き換えたもので、『魔法少女沙枝』なんかは結構がらっといかにもエロゲー的な文体に変わっていて興味深い。
最後にさくっとまとめると、ライトノベルの文体ということを考えた場合、ほかの小説ジャンルなんかと比べるよりは、アニメとかエロゲとか異なったインターフェイスをもつメディアとの相互関係というか相互影響を考えたほうが面白いのではないかという感じです。
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