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2007年11月12日

コミック化してもたぶん読まれない作家たち

難解で読まれない名作、コミックで完売 仏人作家の長編小説という記事。プルーストの『失われた時を求めて』が糞長くて難しいので、漫画化してみたら受けたという話。まあ、買った人のどれだけが本当に読んでいるかは謎なわけですが、日本でも手塚治虫がドストエフスキーとかやってましたし、よい感じだと思いますね。まあ、次はフィネガンズよろー、ということで。

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2007年11月03日

虫裁判の話

REVの日記の記事に、『喪失と獲得』という進化心理学の本の紹介がされています。関係があるようでない話ですが、ジュリアン・バーンズの『10 1/2章で書かれた世界の歴史』に、現実に起こった虫裁判を取材した短編小説が入ってますね。まあ、誰に怒りをぶつけていいかわからないというやつなんでしょうが、虫にとってははた迷惑な話です。

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2007年07月15日

オタク文化としてのライトノベル

ライトノベルの文体の話が一部で盛り上がってますね。元はポスト〈セカイ系〉としての『ギートステイト』と、ライトノベル作家の文体についての疑問という記事でしょうか。

まあ、最初に端的に元も子もない話をしてしまえば、文章に凝ることの出来る時間がないというのがあるわけでしょう。mot justeとかいって、ひとつの言葉をひねり出すために丸一日とか平気でかけていたフロベールは『ボヴァリ夫人』を5年ぐらい使って書いていますし、『フィネガンズ・ウェイク』を書くのにジョイスはなんと17年もかけています。現代作家でも、ピンチョンとかギャディスなんかは10年とか平気で使うわけですね。そういうのと比べて、ライトノベル作家は普通に1年に何冊も小説を書く人もいるぐらいですから、単純に使える時間が少ないわけで、その限られた時間で読ませる文章を書く方法として、いわゆる「ラノベ的」な文体が編み出されたというのがあるのではないかと思うわけです。

文体の話とかになると、すぐ大衆小説は娯楽だから読みやすい文体で純文学は芸術だから典雅な文体だとかいう話になるわけですが、実際のところというか当然ながらそんなことはまったく無いというかそういう簡単な話ではないのです。日本の近代小説だと、簡潔な文体の作家として有名な人には志賀直哉がいます。彼はあらゆる無駄な表現を徹底的に切り詰めることでよく知られていて、取り合えず恐ろしく巧く小説を書く。一方で、典雅な文体で書く作家には、谷崎潤一郎なんかがいるわけでしょう。彼の書く文章はどれも基本的にとても息が長く、ごてごてで耽美な感じです。

この二人の作家は非常に典型的ですが、簡潔に書いたほうが読みやすく、典雅に書いたほうが読みづらいというわけでもないんですよね。志賀直哉の文章は切り詰められていて映像を喚起させるような表現が非常に美しいわけですが、注意していないとなかなかちゃんと読めないというか、何がなんだかよくわからない。一方で、谷崎の文章は非常に雄弁でテンポがいいので、文字がぎっしり詰まっていてもいつの間にか平気で10数ページ読んでいたりするわけです。

まあ、そうなるとライトノベルという括りで文体について考えることにどれだけ意味があるのかというのがあるわけですが、ここで、ライトノベルというのがいわゆるオタク文化の一部であるということに注目してみましょう。オタク文化といっても色々あるわけですが、その中で物語を語るものとしてはアニメとか漫画とか、まあエロゲとかあります。ライトノベルはそれらのオタク的作品を文化的背景として持っている小説群であると考えることが出来る。

漫画とかアニメには基本的に文体の問題というのはありません。「語り」という話になるとまた別ですが、基本的に物語を語る機能を持つのは語り手ではなく、それらの機能はコマ割りだとかシステムの問題へと大部分が委譲される。基本的に文章によって物語られているエロゲも紙芝居なのでその傾向はあって、背景CGやエフェクト、よく動く立ち絵などに描写する機能は移されていき、無個性な主人公とか何とか、語り手とかどうでもよくなってくる。

そんな中で、ライトノベルというのは小説なので、いやでも語り手がしゃしゃり出てきたりするわけです。エロゲをそのまま小説に起こしても、全然同じものにはならないですし、逆もまた然り。まあ、これはほかのどのジャンルにおいてもいえることではありますが、「語る」ためのインターフェースが異なるメディアから作品を変換する場合、その点で興味深いケースとして、ミルフィーユ何かが最近出している、二次元ドリームノベルズの小説ををエロゲー化した作品があります。これらの作品は、基本的に原作の作者がライターとしてエロゲー向けに作品を書き換えたもので、『魔法少女沙枝』なんかは結構がらっといかにもエロゲー的な文体に変わっていて興味深い。

最後にさくっとまとめると、ライトノベルの文体ということを考えた場合、ほかの小説ジャンルなんかと比べるよりは、アニメとかエロゲとか異なったインターフェイスをもつメディアとの相互関係というか相互影響を考えたほうが面白いのではないかという感じです。

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2007年05月05日

「独り言」の倫理

cogni氏の 批評関係の雑感という記事。こういう反応があるのはうれしいですね。わざわざ時間をかけて書いた甲斐があります。

んでその記事の中で、cogni氏は小林秀雄を引き合いに出しつつこういうことを書いています。

そのせいか最近、私は丁寧語で書いている作品についての言説は余り信じられなくなってきている。丁寧語で書くということは、そこにはその文章を読む読者が想定され、更にその読者は「話せば解る他者」という想定がなされているだろうから。・・・試行錯誤していれば、文章ですらほとんど内言のようになり、必然的に丁寧語の選択肢は消えていくはずだと思う。もちろん人に自らの意見を伝えることを主目的とした文章ならば丁寧語を使うべきでしょうが、小林的な批評を目指すなら使うべきではないだろう。

批評が読者を前提とするのは、小説が読者を前提にするのと同じくらい当たり前のような気がしなくもないわけですが、cogni氏の言わんとすることも分らないわけではないというのが今回の話。

柳瀬尚紀というある意味有名な翻訳家がいます。『フィネガンズ・ウェイク』という恐ろしく難解な作品の全訳をしたひとですね。『ユリシーズ』翻訳の続きを出すつもりがあるのかどうかが気になるところですが、それはそれとして、柳瀬は『フィネガン辛航紀』という『フィネガンズ・ウェイク』関係を中心としたエッセーとかインタビューとか対談を集めた本を出しています。んで、その中でこういうことを書いているというか、インタビューで話しています。

普通の、決まりきったステレオタイプの言葉や紋切り型となってしまった日常会話。日常会話以外でも、何か意味のあることをしゃべろうとすると、ほとんど紋切り型になりますよね。そういう、決まりきったものでないものを求めようとする気持が、一部の詩人だけではなく、人間一般の精神活動のどこかにあるのではないかと思います。
『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳していくと、自分でも何を言っているのか定かでないような言葉を作り続けるわけです。
これは、完璧に独り言なんです。その「独り言」を、幸い、いろいろな人に読んでいただいている。
言葉というのは、一度、完璧な独り言に戻らなければならないのではないか。『フィネガンズ・ウェイク』でジョイスがやろうとしたことは、辞書からも逃れること、といいますか、印刷される本――彼は、この『フィネガンズ・ウェイク』のことを単なる「本」としか言っていません――にあるような言葉ではなくて、古代の言葉に回帰するようなことではないかと思いますね。
人に向かってしゃべるということは、文節化、"articulate"するということですから、何か言葉の持つ力を薄めてしまうというか、一義的意味を確定できるようにしていかなければならない。何かを言うときに、いっぺんにいろいろなことを言おうとすると、それは「独り言」になるんですね。

引用長すぎですが、言ってることは普通に分るでしょう。他人に分るように書くというのは要するに思考を制度化するというか、紋切り型に当てはめることです。そのような制度化によって切り捨てられてしまうような独り言をかき集めるようにして、ジョイスは『ユリシーズ』なり『フィネガンズ・ウェイク』なりを書いた。ジョイスは新聞の広告から何から何まで資料を収集してというかダブリンから送ってもらって小説を書くわけです。んで、もしダブリンが消滅したとしても『ユリシーズ』さえあれば3日で元通りにすることが出来るとかなんとか言う。それは単にダブリンについて緻密に調べたということではなくて、ダブリンの全体を、そこに含まれる互いに矛盾するようなというかほとんどどうでもいいような「独り言」をも含めて「ありのままに」書き込んだということであるわけです。

まあ、あらゆる書き手に「ジョイス語」みたいな言語を駆使して思考を「ありのままに」書き込まれても困るわけですが、というか、普通に意味不明ですが、そういう「独り言」を抹殺しないようにしながら読むなり書くなりするのがよろしいというか、したいとは思いますかね。批評の話というところでいうと、作品を既存の理論やら何やらに当てはめるだけではなくて、前回書いたように、定型化しようとする行為自体がむしろ作品の固有性を暴き出すというか、そこまで行ってようやく批評とか何とかという話になるわけです。えらそうなことを書いてますが、簡単なことではまったくないというかほとんど理不尽ですらあるというのが実際のところなので色々ときついわけですが。

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2006年10月11日

『村』の問題と個人の『恥辱』

“村の掟”が不要な人/必要な人の明暗という記事を読んで不意に思い出したJ.M.クッツェーの『恥辱』という小説の話。

J.M.クッツェーというのは南アフリカ出身の白人作家で、2003年にノーベル賞を受賞した人です。南アフリカの人種差別を含む複雑な社会状況を、差別してきた側である白人の立場から赤裸々に描き出す作風が特徴的。この『恥辱』という作品は、比較的実験的な作風を好むクッツェーにしては珍しく、リアリスティックというか昼ドラみたいな作品に仕上がっています。

中年の大学教授であった主人公が、教え子の女の子に手を出して大学から追い出され、娘のいる田舎に引きこもるところから話が始まります。主人公はバイロンなんかを好む都会的なタイプの男なんですが、娘は保守的なタイプで、地方の村社会に溶け込もうと必死。その執着っぷりはちょっとすさまじくて、レイプをされても村社会での軋轢を避けるために訴えなかったり(レイプを行ったのは村社会の有力者の身内)、村社会内での立場を維持するために好きでもない男と結婚しようとしたり、何かに取り付かれているとしか思えないほど。そのため、主人公と娘は終始対立をし続けるわけですが、その対立は作品の最後になっても結局解消されない。まあ、保守的なタイプの父親と、それを嫌う娘というのがありがちな小説の筋ですから、それをひっくり返したようなつくりになっているわけですね。

この主人公と娘の軋轢をどう読めばいいのかというのは、なかなか微妙な問題です。実際のところ、大学教授である父親の視点から語られる『恥辱』という作品においては、娘は完全な赤の他人のような感じで描き出されていて、何を考えているのかよくわかりません。ただ依怙地になっているだけのようにも見えてしまう。この二人の間の断絶というのが、アパルトヘイト前後の南アフリカにおける白人の間の断絶なのかもしれませんが、もちろん大して南アフリカに関心のない私にはいまいちピンと来ないところがあります。まあ、二人の軋轢をその複雑さのままに描き出すところに『恥辱』の面白さがあるわけです。

最後にとってつけたようにこの記事の冒頭で紹介したp_shirokuma氏の議論に戻るとすると、『恥辱』において提示されている父と娘の軋轢は、現代の日本が直面している問題と共通するものがあるでしょうし、そのあり方の複雑さを示してもいるでしょう。

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2006年09月21日

要するに歴史がないのです

[批評]というほどじゃないけれど。という記事。まあ、そういうのはカルチュラル・スタディーズとかジェンダーとか新歴史主義とか色々あります。というか、「作者は死んだ」タイプのテクスト論なんかより最近は流行ってるんじゃないでしょうかね。コンテクストについて語るのは調べものをする必要があるので面倒くさいですし、大体エロゲーとかごく最近のものについて語ってもなんだかなーみたいなのがあります。要するに、歴史がないわけです。あとは、作者を殺しておけば、とりあえず作品を読むだけで批評ごっこが出来てお手軽だ、というのもあるでしょう。まあ、まともに作品を分析したければ歴史的・文化的背景を調べるのは当然の下準備ではあります。

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2006年09月02日

『涼宮ハルヒ』と構造的ツンデレ論

おおむねブームは過ぎ去ってる感じですが、思いついたことがあったので。『涼宮ハルヒ』を語る三人のキョンを書くために『憂鬱』を読み直していたときに、妙に気になるフレーズがあったんですよね。冒頭付近のこの一節。

こうして俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。偶然だと信じたい、と。

普通に何も考えずに読むと、ハルヒと出会って毎日くそ大変だから、運命なんかであってたまるか、という建前のキョンお得意の持って回った韜晦です。しかし、以前指摘したようにこの部分が「高校を卒業した後、あるいは少なくとも『涼宮ハルヒ』という作品群において語られるべき物語が全て終わった後の時点」で語られたものであると想定した場合、それとはまったく異なる読み方が可能になります。

涼宮ハルヒは世界を思うがままに変容させる能力を持っています。そのため、少なくともハルヒの周囲は彼女に都合がいいように出来上がっていて、宇宙人とか超能力者とか未来人とかが集まってくる。ですから、彼女の変態能力で集められた(と少なくとも彼ら自身は信じている)宇宙人とか未来人は口をそろえて、涼宮ハルヒの行動には必ず意味があり、キョンが選ばれたのにも必ず理由がある、という風にいいます。まあ、超能力者は素直なのか何なのかよくわかりませんが、「あなたが一番の謎なんです」とかいってますが、どちらにしてもハルヒの行動には必ず意味があり、その結果としてSOS団のメンバーが集められているという前提に立った謎に他なりません。

もちろん、キョンはけったいな因果に巻き込まれるのは御免ですから、そんな理由などは存在しないという風に嘯きます。実際のところ、彼自身が殺されかけたりといった厄介ごとさえなければ、他人事のままですんだはずなわけです。しかし、彼は朝倉に殺されかけ、ついにはハルヒと二人で閉鎖空間に閉じ込められる。ここまでくると、彼自身、自分が「涼宮ハルヒに選ばれた」ということを考えざるを得ない。そして、キョンは決断を下します。

「あんたは、つまんない世界にうんざりしてたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」
「思ってたとも」
(中略)
「あのな、ハルヒ。俺はここ数日でかなり面白い目にあってたんだ。お前は知らないだろうけど、いろんな奴らが実はお前を気にしている。世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。みんな、お前を特別な存在だと考えていて、実際そのように行動してた。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

ハルヒの決定的な一言に対して、キョンはすでに以前のような他人事、たとえば彼氏でも作って遊べばいいとか、そういうありきたりな常識をいう事が出来ない、ということに注意しましょう。ありきたりな常識を吐くだけなら誰でも出来るわけですし、実際、ハルヒと出会った頃のキョンは彼女の破天荒さに対して、彼氏を作って遊べとか、運動部にでも入れとか常識的なことを普通に突っ込んでいたわけです。しかし、キョンはそのような当たり前の結論を退けます。それは、彼がもともと非日常にあこがれていた、というのもありますが、それ以上に、未来人や宇宙人や超能力者とかかわることによって、世界が「常識的な形」には出来上がっていないという現実を知ってしまった、ということが大きいでしょう。キョンが「涼宮ハルヒに選ばれた」ことを認めるということは非日常的に出来上がってしまった世界を認めるということであり、朝比奈みくるが未来人であり長戸有希が宇宙人であり小泉一樹が超能力者であることを認めるということと同義です。それはただの現実認識ではなく、非日常的な存在である彼らに関わった責任を背負うことでもあります。

端的に、この場面で対比されているのは「日常」と「非日常」ではなく「現実」と「幻想」であり、彼の下す決断は現実に対する倫理的な判断に他ならないといえるでしょう。ちなみに「現実」と「幻想」の対比は、この場面とは逆に「日常という幻想」を退ける立場から『消失』において繰り返されることになりますが、それはまあ余談。それはともかくとして、キョンの決断により奇妙な転倒が発生します。それは、涼宮ハルヒを受け入れるということが、涼宮ハルヒの提示する幻想の世界を拒絶することに他ならないということです。つまり、ハルヒを拒絶することによって初めてキョンはハルヒを受け入れることが出来るという転倒。

ここで、改めて冒頭に引用した一節に戻ってみましょう。

こうして俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。偶然だと信じたい、と。

キョンは涼宮ハルヒには世界を好き勝手に改変する能力があると知っている。さらに自分が涼宮ハルヒに選ばれた存在であるということも知っている。そのような前提において、「偶然だと信じたい」と語ることにどのような意味があるのか。あるいは神が存在する世界において「偶然」とはどのような意味があるのか。まあぶっちゃけた言い方をすると、それは要するに自由意志の問題というやつです。涼宮ハルヒが神であり、彼女を中心とした因果が存在したとしても、自分とハルヒが出会ったのは偶然であり、自分がハルヒを受け入れたのは自由意志の問題であるとあくまで主張すること。そうすることによって初めてキョンはハルヒと対等な立場に立つことができ、彼女と思いを通わせることが出来る。ここに見出されるのは、先ほど見たのとまったく同じ構造的ツンデレとでも呼ぶべき転倒の形です。

簡単にまとめると、『涼宮ハルヒ』について語ったりする場合、ハルヒはツンデレだとか、いや、キョンこそツンデレだとかいったりするわけですが、実際のところ、その態度は『涼宮ハルヒ』という作品の構造が要請しているものであり、構造的ツンデレとでも呼ぶべき一種の転倒に他ならないのです。

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2006年07月20日

読んでおくとエロゲーを2倍楽しめる現代小説10冊

続・エロゲーヲタに読ませたい現代小説10冊 −永遠はないよ−という記事。谷崎は『刺青』なんかもよいですよね。本当に変態で。んで、エロゲに影響を与えてそうな作品という観点で考えてみても面白いかなぁ、とか不意に思ったのでちょっと書いてみる。

宇宙の戦士 ロバート・A・ハインライン
エイリアンと戦うために軍隊で鍛え上げられていく青年の話。ガンダムからエヴァ、マブラヴオルタにまでいたる日本のロボット物ミリタリSFへの影響は絶大。
ニューロマンサー ウィリアム・ギブスン
近未来を舞台としたサイバーパンクの原点。電脳空間とかAIとかコンピューターサイエンス関係は大体これが元ネタ、というか、すでにほとんど全てやりつくされている。
幼年期の終り アーサー・C・クラーク
20世紀の終わりに宇宙人がいきなりやってきて、ユートピア的な世界を作り上げたかと思うと……みたいな話。やけにスケールのでかいSF。
1984 ジョージ・オーウェル
絶対的な管理社会と人間性の抹殺を描いたディストピア小説。冷戦はとっくに終わったのに、ますます現実味が増してくる作品。
スローターハウス5 カート・ヴォネガットJr
第二次大戦中のドレスデン爆撃の経験を下敷きとして書かれた、シニカルかつ繊細な一種のタイムトラベルSF。ブラックユーモアで武装しなければ語れない現実の悲惨さ。
他人の顔 安部公房
顔に火傷を負って妻に逃げられた主人公が、仮面をかぶって他人になりきって妻を誘惑する、という話。人間の孤独とコミュニケーションの不安という安部公房お馴染みの主題。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹
もうひとり日本人。幻想的な「世界の終り」とスパイ小説風の「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの世界を同時並行で語っていく作品。セカイ系とかあのへんの自意識過剰な作品の元祖。
不死の人 ホルヘ・ルイス・ボルヘス
ホメロス・『千夜一夜物語』などを素材としつつ作り上げられた、幻想的かつ思弁的なメタフィクションを集めた短編集。比較的物語性が高いので読みやすい。
蝿の王 ウィリアム・ゴールディング
孤島に閉じこめられてしまった少年たちが作り上げたユートピア的社会が次第に崩壊していく、という作品。シニカルかつ冷静に人間存在の本質を抉り出しています。
指輪物語 J.R.R.トールキン
ファンタジーからひとつ選ぶとすれば文句なしでこれでしょう。「中つ国」を舞台とした長大な冒険譚。ドラクエをはじめとするあらゆる中世風ファンタジーの元ネタ。

どうにもこうにもSFだらけ。日本のオタク文化はSFから始まったとか言われることがよくありますが、確かにSFだよなぁ、といった感じ。

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読んでおくとエロゲーを2倍楽しめる現代小説10冊

続・エロゲーヲタに読ませたい現代小説10冊 −永遠はないよ−という記事。谷崎は『刺青』なんかもよいですよね。本当に変態で。んで、エロゲに影響を与えてそうな作品という観点で考えてみても面白いかなぁ、とか不意に思ったのでちょっと書いてみる。

宇宙の戦士 ロバート・A・ハインライン
エイリアンと戦うために軍隊で鍛え上げられていく青年の話。ガンダムからエヴァ、マブラヴオルタにまでいたる日本のロボット物ミリタリSFへの影響は絶大。
ニューロマンサー ウィリアム・ギブスン
近未来を舞台としたサイバーパンクの原点。電脳空間とかAIとかコンピューターサイエンス関係は大体これが元ネタ、というか、すでにほとんど全てやりつくされている。
幼年期の終り アーサー・C・クラーク
20世紀の終わりに宇宙人がいきなりやってきて、ユートピア的な世界を作り上げたかと思うと……みたいな話。やけにスケールのでかいSF。
1984 ジョージ・オーウェル
絶対的な管理社会と人間性の抹殺を描いたディストピア小説。冷戦はとっくに終わったのに、ますます現実味が増してくる作品。
スローターハウス5 カート・ヴォネガットJr
第二次大戦中のドレスデン爆撃の経験を下敷きとして書かれた、シニカルかつ繊細な一種のタイムトラベルSF。ブラックユーモアで武装しなければ語れない現実の悲惨さ。
他人の顔 安部公房
顔に火傷を負って妻に逃げられた主人公が、仮面をかぶって他人になりきって妻を誘惑する、という話。人間の孤独とコミュニケーションの不安という安部公房お馴染みの主題。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹
もうひとり日本人。幻想的な「世界の終り」とスパイ小説風の「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの世界を同時並行で語っていく作品。セカイ系とかあのへんの自意識過剰な作品の元祖。
不死の人 ホルヘ・ルイス・ボルヘス
ホメロス・『千夜一夜物語』などを素材としつつ作り上げられた、幻想的かつ思弁的なメタフィクションを集めた短編集。比較的物語性が高いので読みやすい。
蝿の王 ウィリアム・ゴールディング
孤島に閉じこめられてしまった少年たちが作り上げたユートピア的社会が次第に崩壊していく、という作品。シニカルかつ冷静に人間存在の本質を抉り出しています。
指輪物語 J.R.R.トールキン
ファンタジーからひとつ選ぶとすれば文句なしでこれでしょう。「中つ国」を舞台とした長大な冒険譚。ドラクエをはじめとするあらゆる中世風ファンタジーの元ネタ。

どうにもこうにもSFだらけ。日本のオタク文化はSFから始まったとか言われることがよくありますが、確かにSFだよなぁ、といった感じ。

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2006年06月29日

エロゲーヲタに読ませたい現代小説10冊

不意に思いついたので書いてみます。極めてまれにエロゲーをシナリオ目当てで買うというある意味かわいそうな人がいるので、まあ、面白い小説でも、ということで。翻訳で手に入るものを選んでいます。

夜ごとのサーカス アンジェラ・カーター
イギリスの女流作家の代表作。19世紀末のロンドンを舞台として、「翼」を持って生まれたブランコ乗りの女性の物語が語られます。ロンドンからペテルブルク、シベリアまで旅をするサーカス団を舞台に奇想天外なエピソードを積み上げた作品。
フロベールの鸚鵡 ジュリアン・バーンズ
フロベールの素人研究家である主人公が、フロベールにまつわる鸚鵡の謎を追いながら、自殺した彼の妻についての思いを語っていく、という作品。フロベールを読んだことがなくても問題はありませんが、『ボヴァリー夫人』ぐらいは読んでおくとよいでしょう。
ピンチランナー調書 大江健三郎
日本人作家も入れておこうということで。革命グループ間の争いと、その黒幕である大物保守政治家の野望の物語。「森・父」という胡散臭い語り手によるSFもどきの喜劇。
蜘蛛女のキス マヌエル・プイグ
刑務所で、ホモセクシャルの男と革命家が恋に落ちる、という話。色物っぽい感じはしますが、監獄での映画などについての会話を通して、微細な心理の動きが描かれていくまっとうな恋愛小説。
百年の孤独 ガブリエル・ガルシア=マルケス
マコンドという架空の村と、その創設者一族であるブエンディア家の百年の歴史を物語る作品。神話的なイメージと下世話な現実と壮絶な歴史が混交する作品。
雪白姫 ドナルド・バーセルミ
『白雪姫』のパロディと呼んでいいのかは微妙ですが。あらすじらしいあらすじも内容らしい内容もない現代を生きる白雪姫の話。軽い語り口によって煙に巻かれます。
覗くひと アラン・ロブ=グリエ
生まれ故郷の離島に行商に来た男の一日。積み重ねられる緻密な描写といかにも俗悪なSM趣味。現実と幻想を混交させながら、主人公の心理を執拗に描き出した作品。
ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
少女に魅了された中年男の話。自意識過剰で変質狂的な男による壮麗な文体。一番魅力的に書かれているのは、何気に死に別れた昔の恋人の回想だったり。最近、新しい翻訳が出ました。
ブリキの太鼓 ギュンター・グラス
三歳のときに体の成長が止まった男の冒険譚。第二次大戦直前のポーランドを舞台として、即物的でグロテスクな現実のあり方を描き出しています。
見えない都市 イタロ・カルヴィーノ
マルコ・ポーロが自らの見聞きした数々の不思議な都市をフビライ汗に語っていくという作品。どこにもない幻想の都市とそれにまつわる対話を通じて、小説、さらには現実の根源的なあり方を再構成していきます。

何か変な小説ばかりを集めた感じですが、現代小説は大体変なので問題はないでしょう。

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2006年06月27日

小説における会話表現の変化

現実の会話はキャッチボールだが小説の場合は違う。キャッチボールみたいな小説を書いていないか? という記事。愛・蔵太氏は一般論として書かれているわけですが、小説における会話の表現の進化というか変化というのはなかなか興味深い問題です。

近代小説が生まれたのは18世紀のイギリスですが、このころの小説、まあ、スウィフトとかデフォーの小説には会話ってあまりありません。作品全体が語り手の回想録で、会話はその回想の中で語りに組み込まれたりします。たとえば『ガリバー旅行記』のこういう書き方。

王は、また、私がわが国の人口をはじき出すのに、いくつかの宗派別、政党別にそれぞれ数を出し、さらに総計を出したのに対し、ずいぶん妙な算術(事実、そう言われたのだ)もあったものだ、といって大笑いをされた。

「私が「わが国の人口はカトリックが何人で……」というと王は「妙な算術もあったものだ」といって大笑いをされた」というようには書かないわけですね。会話も語り手の語りの一部であって、そこから独立したりはしない。

19世紀ぐらいの小説になるとだいぶ様子が変わってきます。このぐらいの時期の小説に特徴的なのは、長文をひたすらにやり取りするところ。ドストエフスキーの作品などは非常に典型的ですが、話し始めたら延々と喋り、それを受けた人間がまた延々と喋る。『カラマーゾフの兄弟』から引用します。

「奥さん」ミーチャがさえぎった「今のわたしに考えられるのは、自分が絶望的な状況に落ち込んでいて、もし奥さんに助けていただけなければ、何もかもぽしゃってしまう……熱病にかかっているんです……」
「存じていますわ、あなたが熱病にかかっていることは存じています……本当のことを言って、わたくし経験豊かな魂の医者なんですの、ドミートリイ・フョードロウィチ」

長いので途中を省略していますが、会話はまとまった文章の交し合いです。blogのコメント欄でのやりとりみたいな感じ。たとえば、上記の会話は実際は「「奥さん」とミーチャがさえぎると「何ですの」とホフラコワ夫人と答え、それに対してミーチャは「今のわたしに考えられるのは、自分が絶望的な状況に落ち込んでいて」といいよどみ、それに対して夫人は「そうなんですか」といい……」とかいう風に多分なされているわけですよ、現実ならば。もちろん、当時の人たちがいいよどみなどなく長話のやり取りをしていたということではなくて、合いの手を入れたりうなずいたり突込みを入れたりといった描写を省いて会話が表現されている、ということです。編集者の目を通して会話が書かれているわけです。

んで、現代の小説。会話をありのままの形で書き出すというのが基本。ヘミングウェイ『武器よさらば』から引きます。

「前進よりも退却のほうがいいですね」とボルネロが言った。「退却のときは、バルベラ酒が飲めますからね」
「いまは酒を飲んでいるが、あしたは雨水を飲むことになるぞ」とアイモが言った。
「あしたはウーディネのはいってるさ。そして、おれたちはシャンペンを飲んでいるだろう。あそこは怠けものの住むところだ。起きろ、ピアーニ! あしたはウーディネでシャンペンだぞ!」
「起きてるよ」ピアーニが言った。彼は皿にスパゲッティと肉をいっぱいとった。「トマト・ソースは見つからなかったのかい、バルト?」

これは複数人の対話の場面なので上の二つの例とは少し違いますが、基本的にはずっとこの調子。短い発言のやり取りを延々繋げることで会話が表現されます。これは大体現実の会話そのまんまといった面持ちですね。話が平気で斜め上のほうにそれていくところなどもリアル。

このような会話の表現のされ方の変化というのは、もちろん、一人称の回想録から始まった近代小説の語り方が徐々に洗練されていった、というのもありはするんですが、小説の表現技法の変化として考えることができます。回想録における一人称の語りというのは作品に書かれた出来事が全て終わった後でなされるものなので、会話がなされた時点とそれを書き起こす時点に、時間的な距離があるわけです。だから語り手はなされた会話を要約して物語の中に組み込む。19世紀的な三人称小説は因果関係の糸を結びつけることによって成立しているので、会話においても因果関係がわかりやすいように省略し編集して会話が表現される。そして現代の小説においてはリアリズムの徹底ということで、物語内容の時間と物語言説の時間が一対一に対応するような書き方、ようするに起こったことをそのまま垂れ流す表現が登場するわけです。いわゆる「意識の流れ」なんかと同じ問題意識。というか、「現実の会話はキャッチボールだが小説の場合は違う。キャッチボールみたいな小説を書いていないか? 」というよりもむしろ、現実の会話は実はあまりキャッチボールしていない、という観察に基づいたところに現代小説の会話の書き方があるわけです。

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2006年06月24日

『涼宮ハルヒ』を語る三人のキョン

いつのまにか『涼宮ハルヒ』のアニメも終わりそうなので、ブームが終わる前に何か書いておこう、とか思いつつ。原作の壮絶なネタバレがあるので気にする人は注意してください。

説明する必要があるのかどうかは微妙ですが、『涼宮ハルヒ』というのはいわゆるライトノベルのシリーズで、2006年4月からアニメが始まりごく一部で何かと話題になっています。「キョン」と呼ばれる高校生の主人公が傍若無人な涼宮ハルヒという不思議パワーを持つ少女に振り回されながら非日常的な話に巻き込まれていく、という話。現在は『涼宮ハルヒの憂鬱』から『涼宮ハルヒの憤慨』まで長短編含めて8冊が出版されています。

涼宮ハルヒは世界を自分の都合のいいように変容させるという傍迷惑な能力を持っているのですが、自分ではそれに気づいていない。そのため、宇宙人とか未来人とか超能力者がいろいろな意図を持って彼女を観察しています。彼女が無意識のうちに変態能力を発揮するのを未然に防ごうと機嫌をとったり、逆に彼女に能力を発揮させて利用しようとしたり。基本的に共通しているのは、彼女が自らの能力に気づくことによって宇宙の秩序が出鱈目になるのは避けたい、というところ。

ここに、『涼宮ハルヒ』という作品の基本的な構造があります。涼宮ハルヒは世界の中心にいて全てを書き換える能力、いわば、神のごとき能力を持っているのにそのことには気づかない。一方で、彼女を取り巻く人々、まあ、宇宙人とか未来人ですが、は変容される対象である世界の側から涼宮ハルヒを観察している。彼らは基本的に現状維持を願っています。世界の全てを見通すはずの神が何も知らない一個人として行動を観察される。あるいは、世界を俯瞰するはずの神が行動する個人であり、行動するはずの人々が観察し続ける、という転倒した仕掛け。

しかし、涼宮ハルヒは世界を面白いものにしようと行動をし続けるので、外から一方的に観察するという宇宙人や未来人の立場は常に突き崩される契機を孕んでいます。その契機は、涼宮ハルヒが作ったSOS団唯一の一般人キョンの立場において描かれるものであり、また、彼が引き起こすものでもあります。

とりあえず今回は『涼宮ハルヒ』における語り手としてのキョンに注目してみましょう。『涼宮ハルヒ』はキョンの一人称の語りによって成り立っていますが、その語りも細かく見ていけば複数の語りを内包しており、この作品の基本的な構造を反映しています。

うすらぼんやりとしているうちに学区内の県立高校へと無難に進学した俺が最初に後悔したのはこの学校がえらい山の上にあることで、春だってのに大汗をかきながら延々と続く坂道を登りつつ手軽なハイキング気分をいやいや満喫している最中であった。

『涼宮ハルヒの憂鬱』第一章冒頭の一文。この文章はキョンによる過去形の語り。つまり、作中の時点からは未来にいるキョンが、県立高校に進学して「延々と続く坂道を登りつつ手軽なハイキング気分をいやいや満喫している最中」のことを思い出し、「最初に後悔した」と語っている、という一節で、『涼宮ハルヒ』という作品に枠組を与えています。語っているのはおそらく高校を卒業した後、あるいは少なくとも『涼宮ハルヒ』という作品群において語られるべき物語が全て終わった後の時点でしょう。わかりやすいのは涼宮ハルヒの自己紹介直後の一節。

 結果から言うと、それはギャグでも笑いどころでもなかった。涼宮ハルヒは、いつだろうがどこだろうが冗談などは言わない。
 常に大マジなのだ。
 のちに身をもってそのことを知った俺が言うんだから間違いはない。

ここで語っているキョンにとって涼宮ハルヒとの高校生活はすでに振り返るべき対象であり、ぶっちゃけていえばもう終わってしまったことです。『涼宮ハルヒ』においてキョンが「物語に入った読者」であるという指摘はなぜ『涼宮ハルヒの消失』は傑作なのかなどでなされていますが、キョンの「読者性」は語りの次元においては、高校生活を振り返る視点において支えられています。思い出を振り返るキョンは物語の時間からは距離をとった存在であり、その点で読者と立場を同一にしています。また、このキョンにとって学園生活がノスタルジーの対象であるということは、『涼宮ハルヒ』がエロゲヲタを代表とするすでに学生ではない読者に受けているという点をも説明します。キョンは学園生活をノスタルジーとともに回想する視点を代表しているわけです。

しかし、『涼宮ハルヒ』はこの回想する語りのみで出来ているわけではありません。たとえば最後の閉鎖空間の場面。

 閉鎖空間が拡大しているのかどうか俺は感じ取ることが出来ないし、また拡大しまくったこの空間がやがて新たな現実空間に成り果てるのかどうかも知らん。ただ、そうなのだろうと思うだけだ。今の俺は、電車で隣に座った酔っぱらいのおっさんが、「誰にも言うなよ、実はわしは宇宙人じゃ」と言ったところで信じてしまえる。すでに俺の経験値は一ヶ月前の三倍の数値くらいには膨れ上がっているのだ。

この一節はいわゆる内的独白というやつで、物語のおこっている最中のキョンによる独白をそのまま書き出したものです。涼宮ハルヒと一緒に閉鎖空間に入ったという過去を振り返りながら語るという回想する視点は鳴りを潜めている。回想する視点が物語に枠組みを与えるものであるとすれば、この内的独白は事件を経験する視点であるといえるでしょう。当事者としての、あるいは登場人物としてのキョンの視点。そのため、この語りは必然的にキョンが登場人物として何らかの選択をし決断する際によく現れることになります。

また、この作品においては時としてキョンの独白が声に出しての突っ込みと区別されないことがあります。谷口とキョンの会話を引きます。

「俺の見立てでは一年の女の中でもベスト3には確実に入るね」
 一年の女子全員をチェックでもしたのか。
「おうよ。AからDまでランク付けしてそのうちAランクの女子はフルネームで覚えたぜ。一度しかない高校生活、どうせなら楽しく過ごしたいからよ」

この場面でキョンは「一年の女子全員をチェックでもしたのか」と発言していて、谷口がそれに応答しています。地の文として発話を入れる方法はキョンの内的独白と発話を結びつける効果を持ちます。回想する語りと独白は一人称の語りの中で普通に混ざり合っていますから、独白と発話がつながることによって、読者の代表として回想するキョンと作中で独白するキョン、そして発話するキョンがスムーズに接続され、読者は作中の世界へと入り込むことになるわけです。

簡単にまとめると、『涼宮ハルヒ』の語りはキョンの一人称による回想、独白、地の文に組み込まれた発話によって成立しており、それらを連続的につなげることによって傍観者としての読者は作中に引きずり込まれていきます。そして、この仕掛けは一般人であるキョンが涼宮ハルヒを観察している宇宙人や未来人の存在を知り、彼らとともに観察しつつも涼宮ハルヒの行動に巻き込まれていく、という『涼宮ハルヒ』の基本的な構造に対応するわけです。さらに、この作品と語りの構造を連動させる仕掛けがしろうと氏が祭り型コンテンツと呼ぶところの、読者に作中人物として参加することを強制する『涼宮ハルヒ』のカーニバル的な仕掛けを構成しているといえるでしょう。

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2006年05月30日

文庫などを読むのにお勧めのブックスタンド

ブックスタンドが超便利です。 | まいじゃー推進委員会!とか「まいじゃー推進委員会!」の極楽トンボさんも推奨!? ブックスタンドが超便利です。という記事。この手のブックスタンドは非常に便利なので、仕事で資料などを使う人ではなくとも、読書を趣味とする人間ならば持っておきたいものです。

ブックスタンドはもちろん手で押さえなくてもよいのが便利だというのもありますが、何より、うつむかなくても本が読めるというのが快適です。特に、ブックスタンドと後傾できるワーキングチェアを組み合わせた際の快適さは抜群で、ベッドに寝転がって本を読むようなめんどくさいことは出来なくなります。私が持っているのはこの記事で紹介されているBook MATE BM160で、もう10年ぐらい使っています。スチール製なのでしっかりしているし、滑り止めなどもあり使い勝手よし。CAX氏は

文庫(主にライトノベル?)を開いたままにするにはややサイズが大きいので、本を抑える「ページホルダー」に自分で何か細工などをすると、更に便利に使える?

と書かれていますが、文庫などを読むのであれば、Book MATEはかなりお勧めです。大きめの本はやや読みづらいところがありますが、「自分の情報整理スタイルを晒しまくり 2」なんかでは

>744 のBookmate で約600pあるの入門 Gun Emacs を立ててみたけど余裕。
私の持っている本の中で最も重く、かつページ数の多い
「病理集団の構造・親分乾分集団研究」っていう本も実用的に使用可能。

と書かれていますし、大体は問題ない水準でしょう。AmazonなんかにはカラーブックメイトというBook MATE BM160と同じ会社の商品が売られていますが、なんかちゃちそうなので、注意。Book MATEは最近だと、新宿の東急ハンズで売っているのを見ました。

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2006年04月30日

芸術の殺し方

村上隆氏とナルミヤが和解 イラスト著作権めぐる訴訟という記事。ミッキーマウスをぱくったおっさんが、自分のキャラをぱくられて怒った、という同人界隈にありそうな話。

ヴァルター・ベンヤミンに『複製技術時代の芸術』という本があります。20世紀前半、映画など現代風のメディアが発達してきたころに書かれたもので、複製技術の登場による芸術の価値の変化についてメディア論的な観点から論じています。

いままでは、芸術の価値はその一回性・唯一性によって支えられていました。アウラとかベンヤミンはいうんですが、要するに、オリジナルなものがオリジナルであることによって価値を持っているということです。芸術はもともとは信仰と結びついていて、礼拝的な価値があった。宗教芸術とかそうですね、拝む対象。近代以降でも、絵画とか彫刻とか、鑑賞するためにそれをおいてある所にまで見に行かなければならない、そういう部分に展示的価値みたいなものは芸術にはあったし、まあ、今でもある程度はあります。しかし、写真とか何でもばら撒きまくるということになると、そういう価値はなくなります。オリジナルと複製の区別が無意味になる。どんどん複製されると、芸術作品の礼拝的価値は切り崩されていく。

そうなると、次の段階はそもそもオリジナルが存在しないとか、複製をさらに複製する、とかいう話になる。そこで、奇妙な転倒が起こる。礼拝的な価値のあるオリジナルなんかそもそもどこにもないのに、複製がばら撒かれることによって事後的にアウラが捏造され、強化される。

ドン・デリーロの『ホワイト・ノイズ』に「アメリカでいちばん写真に撮られる納屋」というエピソードがあります。何の変哲もない納屋なんですが、それが有名だということでたくさんの人が写真を撮りに来る。そうやって人がバンバンやってきて写真を撮りまくることによって、さらにいえば、それのみによって、何もないところにアウラが維持される。そもそも、有名になる前の納屋ってどんなだったんだ、とかいわれてもよくわからないし、ある意味、そんなもの存在しない。高度にメディアが発達した現代においては、そういうことはまあ当たり前にあるよね、ということは、簡単にわかるというかそんなもんでしょ、という感じ。

んで、村上隆の仕事というのは、その辺を踏まえたオタク文化のパロディであったということを考えると、今回の件はどうなのよ、というのはあって東浩紀も指摘している。まあ、人のパロディをするのは好きだけど自分がパロディされると烈火のように怒る人というのはネットでもよく見かけるものです。

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2006年04月15日

セカイ系において女はいかにして抑圧されるのか

モノーキーの一連の話を受けつつセカイ系の話。

セカイ系というのが一般的な用語なのかよく知りませんが、とりあえずWikipediaのセカイ系の項から定義を引いておきます。

作品の主役の個人的な行動や性質、対人関係、内面的葛藤などが、「日常生活」ではなく「世界」そのものの存続を左右する…という設定を特徴とする。また他の特徴として「ボク」と「キミ」という二つの存在が、ストーリーの鍵となるケースが多く、二人の個人的行動、特に恋愛が「世界」の命運を握る傾向が多く見受けられる

近代文学の領域だと、社会の中に生きる人間の生活を描くリアリズム小説としてのnovelと対比させて、社会的な要素のない作品をromanceと呼んだりしますから、セカイ系はromanceの系譜の作品群、という理解で大体よいですかね。確かに、後期ゴシックロマンスの代表的な作品である『フランケンシュタイン』は、何となくセカイ系っぽい作品です。ヴィクターのプライベートな問題が世界の存続と関係しますし、女の化け物を作るかどうかという問題を、世界を救うことを選ぶか自らの保身を選ぶかという問題である、と少なくともヴィクターは考えていて、そこに社会は終始介在しない。さらに、象徴界の欠如ということは、ヴィクターに関してよく指摘されていることです。

んで、そのような作品群において、「女の内面が収奪されている」というのが本題。なぜそんなことがされるのか、という問いのそれなりにもっともらしい答えとしては、制度的に女の他者性を奪える装置である社会がセカイ系においては欠如しているからだ、という元も子もないものが考えられるでしょう。要するに、社会においては女の内面は何もしなくても自然に収奪されているが、セカイ系の作品には社会がないため、わざわざ(語り手などが)収奪しなければならない。

このへんは「萌え」られる女の絶望についての補足というか続きの話。はてブで、女を鑑賞するのは萌えというよりエロではないか、という話が出ていますが、私は鑑賞するだけでは「エロ」は成立しない、と考えます。9791氏がコメント欄で指摘しているように、エロは性欲であり、性欲はセックスと結びつき、セックスは対象との一体化の欲望と結びついています。すなわち、「萌え」た対象にコミットメントしたいと思うときに「エロ」が成立する。しかし、対象と一体化するとき、「対象を鑑賞する」という安定した立場は危機にさらされてしまいます。このへん、男と女のセクシャリティの差異を考慮に入れると面白いかもしれません。それはともかく、それならば、「萌え」ながら安全に性欲を満たすにはどうすればいいのか? それで、とりあえず女の他者性を奪っておけば安心できるのではないか、という話になる。モノーキーの人いわく

女性の気持ちがわかってないと、(非モテな)男の子というのは、どう対応すべきかどう接したら良いかはっきり決定できなくて困っちゃったり不快に感じたりするわけだ。

ということ。

そして、どうやって女の他者性は奪われるのか、というのが次の話。その説明に、セジウィックのホモソーシャルに関する議論を援用してみます。ホモソーシャルというのは、女を媒介とすることで男の間の友情を強化し、その一方で、異性愛の価値観によって同性愛を排除する関係のことです。女性嫌悪と同性愛嫌悪を背景にしつつ女を貨幣として流通させる男同士の友情関係が、家父長制的な社会制度を支えている、と。

この理屈を当面の議論にひきつけるためにひっくり返してみます。すなわち、女を貨幣にするために男の間を流通させるのだ、そして、女を流通させるためには男同士の友情と制度としての家父長制が必要になる、というように。要するに、女の他者性を奪うための制度として捉える。まあ、ぶっちゃけた書き方をすれば、ギリシャ悲劇の昔から男女関係は男二人女一人のドリカム的三角関係の間で欲望を流通させるのが基本なので、「ボクとキミ」しかいない関係性というのは「ボク」の立場からすると不安定極まりないのですよね。

んで、非セカイ系の作品においては、女の他者性を奪う制度が社会として機能しているので、女は普通に「モノ」。よって「いや、いずれにしても女は鑑賞される生き物とされてきましたよ。萌えはその一つ」ということになる。一方でセカイ系の作品においては、制度が麻痺しているために、女の他者性を奪うために内面が記述される必要が出てくる。ここで再び『フランケンシュタイン』の話を持ってくると、エリザベスをはじめとするこの作品の女性は、しゃべったりする場面が直接描かれることはほとんどありません。基本的にすべて語り手などの男を媒介にして、女たちの考えが間接的に明らかにされる。語り手と「ボク」と「キミ」の擬似的な三角関係の間で欲望を流通させる、というのはちょっと論点ぶっ飛びすぎというか思いつきテキトーすぎですかね。

どうせなのでさらに決め付けると「エロゲのエロ描写に説明が多いのは、ヒロインの他者性を剥奪して観賞するためなのかもしれない」というのは、エロゲーのエロシーンは、シーン回想で場面を見るだけでも「使える」ようにするために、物語性や社会性をテクストの前面に持ってくることを避けていることが原因のひとつであると考えられます。そうすることによって場面から社会が退き、エロシーンはセカイ系に近づいていく。

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2006年04月11日

「萌え」られる女の絶望について

ASTATINEの「男性主導/女性主導、上。/中。/下。」という記事に関連してというか準えて。色々と論点はまああるわけですが、とりあえず徐に川端康成『雪国』の引用からはじめてみましょう。

汽車から窓の外を見ている島村は、窓の外の雪景色と、窓に映って見える汽車内の葉子を見ながらこのように考えます。

鏡の底には雪景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野火のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。

どういうことを書いているのか、というのはわかりますかね。窓の外と中の世界を重ね合わせて、ひとつの世界であるかのように、つまり、雪が降り続ける背景の前面に女がいる、という風に島村は想像する。汽車の外の野火の光と娘の目の輝きが重なり合うとき、それは「夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫」になる。二つの世界が重ね合わさった世界は、島村にとって「この世ならぬ象徴の世界」であり、美的な鑑賞の対象です。

鏡というのは『雪国』において頻繁に用いられるメタファで、おおむね、島村が雪国での出来事を非現実的なものとして捉えていることを示しています。たとえば駒子は「夕暮の汽車の窓ガラスに写る女の顔のように非現実的な見方」をされたりする、と。島村にとって雪国での生活とか駒子との関係は幻想的で非現実的なものであり、駒子の情熱的な姿も、傍で見て「美しい」と感じる鑑賞の対象でしかありません。

駒子は島村の情人であるわけですが、彼女は島村にとって都合のいい虚構の存在であるどころか、情熱的なタイプの女性であるので、島村の彼女に対する観照的な態度というのに鼻持ちがならない。

「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと肩肘立てて首を上げると、
「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」
 島村は驚いて駒子を見た。
 「言って頂戴。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」

この場面は、直接的には駒子の勘違いなのですが、二人の間の深い断絶をも示しています。島村の審美的な態度は結局のところ現実への、駒子への無関心であり、駒子はそれに気づいて絶望する。

ここまできて、ようやくASTATINEの記事の話に戻るわけですが、この島村と駒子の間の断絶こそが、エロゲーにおける、あるいはエロゲーを巡る男と女の断絶の正体なのではないでしょうか。つまり、上記の場面で描かれているのは、「萌え」られる女の絶望ではないか、と。「萌え」というのは要するに女を鑑賞することであり、エロゲーの物語がどうこうとか言っても、実際のところ、喜んだり悲しんだり絶望したりしている女の姿を鑑賞するための方便である、と。

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2006年03月20日

終わらないプルースト

発熱地帯: 終わらない物語は読者の願望だが、同時に読者を疲弊させるという記事を見て、集英社版『失われた時を求めて』の文庫化が始まったのを思い出して買ってきました。

『失われた時を求めて』はマルセル・プルーストという19世紀から20世紀にかけて生きたフランスの作家が死の直前まで書き続けた超大作ですね。翻訳はちくま文庫に入っている井上究一郎訳全10巻と集英社から単行本として出た鈴木道彦訳全13巻が存在。ロマネスクで息の長い文体が非常に読みづらく、ほとんどの人間が途中で挫折するというので有名な作品です。これがどんな作品なのか、というのをまとめるのはなかなか難しいわけですが、爛熟したパリ社交界の倒錯した姿をきらびやかに描きつつ、意識の中に浮かび上がってくるものとしての記憶と時間、そしてそこから立ち現れる認識の構造としての現実について書いた、とでも書いておきましょうかね。男色とか結構色々とアレなところのある作品ではあります。

この手の大作はなかなか読めるものではないので、暇な大学生の人とかはエロゲーなんかやらずに『失われた時を求めて』とか読むといいような気がします。

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2006年03月05日

なぜ創作するのかという愚問

認知科学徒GPY - どうして創作するんだろうかという記事。テキストが見つからないのでテキトーですが、たしか大江がどこかで、それならば、なぜ多くの偉人がこれまで生きてきたというのに君は生きるのか、とか、書いてましたね。日本文学の終焉とかいう言説が80年代の後半ぐらいに流行って、大江も最後の小説とか何とか日和ってましたが。まあ、そんな質問をする暇があれば何か創作でもして誰かに感想でも聞いてみればいいのではないですかね。そうでもしない限り、質問自体あまり生産的ではないかと。

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2006年02月17日

死ねない「作者」は登場人物の中に埋もれる

コントロールできる作品がつまらない件について。という記事。まあ、作り出したキャラクターは子供みたいなものだとかいう人は、たまにいます。んで、かわいい子なので凌辱とかひどい眼にはあわせられないとか、殴り倒したくなることをいう類も。

この手のネタで、お約束なのがミハイル・バフチンのポリフォニー論というやつです。バフチンはロシアの文芸批評家で、ちょうどフォルマリストの一世代後の人ですね。なので、彼らの形式主義とか言語学的な傾向を批判的な形で受け継いでいる。

彼の主著のひとつに『ドストエフスキーの詩学』というのがあります。ちくま学芸文庫に入っているので、それなりに入手しやすい。内容としては、作中時間が短く非常に緊密であるとか、主人公の分身のような登場人物が出るとかいったような、ドストエフスキーの話の作り方を、対話的=ポリフォニー的というキーワードで捉える、という感じ。

一般的に、ドストエフスキーは非常に思想的な小説を書く人だと思われています。19世紀最大の思想家だとか、言われる。ラスコーリニコフとかスタブローギンとか「大審問官」だとか、それらしい場面は確かにドストエフスキーの小説にはいやというほどあふれている。しかし、ドストエフスキーは特定の人物の思想にプライオリティをおいていない、ということをバフチンは指摘します。つまり、ラスコーリニコフにしろスタブローギンにしろ、その思想はスヴィドリガイノフとかキリーロフによって相対化されている。その有様は、例えば作品の主題を「作者」として滔々と語ってしまうトルストイのようなタイプとは全く異なったものです。支配的なイデオロギーは存在しない。

普通、異なった思想を持つ異なった階級の人が出くわし会話をするということはありません。貴族がそこらへんの乞食と対話したり、インテリ大学生がアル中オヤジと対話したりという事態は起こらない。当時のロシアは貴族制度があり、しばらく前までは農奴制もあったわけで、現在の日本などよりも、その断絶は大きかった。まあ、イデオロギーの坩堝になっている現代日本のインターネットも、テクノロジー的に住み分けの進む閉塞空間ですが。それはそれとして、ドストエフスキーは、様々な人間がひとつのところに集まり、互いに激しく議論せざるを得ないような状況をほとんど強引に作り出す。その現われが、彼の小説に特有の、異様なまでに圧縮された場所と時間なわけです。

それぞれの登場人物、そして彼らが代表するイデオロギーが、互いに対等の立場に置かれながら議論の対象とされる。それは、作者のイデオロギーですら例外ではない。そうバフチンは指摘します。つまり、ドストエフスキーは思想を開陳する小説を書いたのではなく、複数の思想がぶつかり合い、それぞれの深層を暴露しあう場所を提示する小説を書いたのだ、ということです。それがいわゆるポリフォニー=多声的というやつです。バルザック的な類型的人物造型とフロベール的なリアリズム、そして20世紀小説的な心理分析の作家ドストエフスキー。

まあ、普通に考えると、ポリフォニーとかいっても、作品の登場人物は作者が考えた作り物なんだから、作者の価値観から独立した存在ではあり得ないだろうとか、逆に、どんな作品の登場人物だってある程度は独立した存在であるだろう、というのはあります。

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2006年02月08日

小説の最も人気の書き出し

100 best first lines from novelsという記事。日本文学だと「我輩は猫である」とか「トンネルを抜けると……」なんかが有名ですが、上記の記事で一番になっているのはメルヴィルの『白鯨』の有名な冒頭、「イシュメールと呼んでくれ」というやつ。二番目がジェイン・オースティンで、三番目がピンチョン。というか、ピンチョン人気が高いですね。冒頭文で印象に残っているのは、個人的にはダンテの『神曲』が一番ですが、あれは小説ではないので入ってないんですね……

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2006年02月07日

ただそこに重ねられる解釈

最近は久しぶりにフォークナーの『響きと怒り』を読んでいます。読み返すたびに新しい陰影を持って感じられるような作品というのはやはり多くなくて、アメリカ文学ではこれとメルヴィルの『白鯨』ですかね、代表的なものは。

『響きと怒り』は南部の旧家であるコンプソン家の没落を書いた作品です。当時流行っていたいわゆる「意識の流れ」の手法によって書かれた作品で、言葉を理解しない白痴ベンジーの心理の動きをカメラアイのような描写で追った第一章と、自殺直前のインテリ青年クェンティンの心理を分析した第二章が非常に有名。私も最初に読んだときはベンジーとクェンティンのインパクトにやられました。

今回読み返して思ったのは、ジェイソン・コンプソンが語り手である第三章が意外と面白いということ。第一章、第二章のインパクトと比べると、ジェイソンの語る第三章はいかんせん地味な感じがします。この章は普通のジェイソンの一人称ですし、ジェイソンは即物的というかリアリスティックなタイプの人間で、この作品の中の言い方を借りればコンプソン的=悲劇的な人間ではない。実験的手法をこれでもかというほど詰め込んだ第一章、第二章と比べて、やはりあまり魅力的ではなかったし、ジェイソンもいうなれば普通の俗物です。

しかし、そんなジェイソンも、もちろん何もかもが金勘定だと思っているわけではない。彼には彼なりの悩みがあって、彼なりの仕方で自らの運命に抗っています。その有様は、例えば作中では絶えざる頭痛などによって、まあ描かれているわけですが、ジェイソン自身は基本的にそんなことを語りたくないわけです。だから、隠す。「意識の流れ」の手法で書かれた作品においては、語り手は自らが語っているという意識は無い、というのが前提ですから、意識的に起こったことを書かないということはやらないわけです。もちろん、無意識的に語られないこと、ベンジーが泣いたとか、クェンティンが妄想にふけっていて現実のことの描写がろくに成されないまま進む、とか、そういうことはありますが、ジェイソンは語りたくないことを意識的に隠す。そして、フォークナーはそれを、ジェイソンがここで意識的に隠しているのだ、というのが分かるように書く。

そういうことを考えていくと、ジェイソン・コンプソンの章は意外と味わい深い。直接的に悲劇的なベンジーやクェンティンと比べて、ジェイソンは屈折し間接的であるだけ悲劇は相対化され散文的になる。クェンティンがスティーブン・ディーダラスタイプだとすると、ジェイソンはレオポルド・ブルームタイプですね。即物的かつ散文的であるがゆえにこそ偉大なる凡人の系譜。

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「作者の意図」に気をつけろ!

殺しても殺してもよみがえってくる「作者」の番外編みたいな話ですが、何かとタイムリーなので。

まあ、単刀直入にいきましょう。エロゲーでも何でも、作者に意図があるのは当たり前ですが、作者の意図が云々とか指摘する類の批評はあまり信頼してはいけません。それは、ただ単に読み手の幻想を脳内作者、受容美学だとimplied authorとかいうでしょうが、に投影しているだけの代物である可能性が高いからです、というか、99.98%そうです。読者が想定する作者は基本的に読者の脳内作者なので、その意図は基本的に脳内作者の意図であり、結局読者の意図です。つまり、作者の意図と称して自らの妄想を披瀝しているだけだと考えるのが吉、さらにいえば、「作者の意図」は読者の妄想設定をあらわすためのレトリカルな表現と考えるのが吉です。

典型的な例がこれ。

私が思うに、ダニエル・デフォーはリアリズムを逸脱しているなどということは百も承知で、あるいは歯牙にもかけずに詳細な描写をあえて行っている。

想像力のリアリズムに私が最近書いた文章ですが、実際のところ、デフォーがどう考えていたのかなんか、基本的に知ったこっちゃありません。というか、分かるわけありません。それを承知しつつ、さらに踏み込むというのは、作者の意図に対して、ではなく、自らの心理の内奥に対して一歩踏み込むということなのではないか、と。んで、作品の読解において重要なのは、結局そういうことなのではないかと。『響きと怒り』の感想は、そういう点で、例のErogame Scapeの話への私なりの応答を意図して書いたものでもあります。

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2006年02月03日

想像力のリアリズム

ダニエル・デフォーに『ロビンソン・クルーソー』という有名な小説があります。第一部は誰もがよく知るように、難破して無人島に漂着した主人公が、原住民を奴隷にして植民地開発をした上でイギリスに戻ってくる話。第二部は平凡な生活に飽きた主人公が再び無人島に顔を出しにいき、さらにはインド・日本・中国・ロシアを経由してイギリスまで世界旅行をする話。第三部は年老いたロビンソン・クルーソーの回想録、という風になっています。普通、よく読まれるのは第一部、岩波文庫の翻訳に入っているのが第二部までです。第三部の翻訳は出ているのかどうかよく知りませんが、まあ、読む人は普通いないのでどうでもいいでしょう。

『ロビンソン・クルーソー』は18世紀にイギリスのジャーナリストによって書かれて以来、本当に様々な解釈をされてきました。近代小説の先駆者であり、プロテスタンティズムの発露であり、帝国主義のイデオローグであり、資本主義的ブルジョワであり、そしてオリエンタリストであるロビンソン・クルーソー。この前、ペラペラ捲っていて気になったのはこういう部分。

第二部の最初のあたり、ロビンソン・クルーソーは自分の植民地の島と、そこに残してきた人々(スペイン人の紳士何人かと荒くれ者のイギリス人たちと原住民)のことが気になって仕方がない。もういい年だし妻子もいるし、いい加減にしろといった感じなんですが、ついには、植民地の島に残してきた連中が散々苦労を訴えかける夢まで見てしまう。そして、こういうことを彼は考える。

こういったことは、私の聞いたこともないことであったし、また事実、必ずしも全部が本当のことでもなかったが、何しろ私の想像力は激しくかきたてられ、その切実さがひしひしと身にこたえたものだから、現実に二人に会うまでは、一切が本当なのだ、いや本当にちがいないのだ、と思いこまざるをえなかった。

岩波文庫版の解説にもありますが、小説なんていう文芸ジャンルは18世紀には成立してないようなものでしたから、基本的に嘘っぱちの話なんか誰も読みたいと思わないわけです。だから、この『ロビンソン・クルーソー』にしろ『ガリヴァー旅行記』にしろ、あたかも本当に起こったことを書きとめているかのような形式をとった上で、色々と嘘っぱちの物語を発表することについて言い訳めいたことを書く。まあ、どれだけ言い訳してもどう見ても虚構の話です。デフォーは、この作品は教訓を元にしたたとえ話だから虚構でもいいのだとか何とかいうわけですが、明らかにその言い訳は苦しい。

現代の私の立場から見た場合、そのような言い訳よりもむしろ、上記に引用したような一文、激しくかきたてられる想像力により、一切が本当のことに違いないと思い込んでしまう、そういう想像力の働きということに関心が向きます。ロビンソン・クルーソーは近代的ブルジョワとか言われますが、実際は中産階級に甘んじることを肯んぜず船に飛び乗り、難破し無人島に流されるということを繰り返し、安全になってもさらに船に乗り込むという某「イラクの三馬鹿」も平謝りになるくらいのろくでなし野郎なわけです。彼に特有なものといえば、類まれな想像力と無謀としかいいようのない行動力ぐらい。

上記の箇所のあと、結局、植民地に戻った彼は現地に残ったスペイン人から話を聞いて、彼らの生活の顛末を物語るわけですが、ここがまた凄い。入植者たちと、どこかの島からやってくる原住民の戦争について、用意した武器の数に至るまで事細かに描写する。こういう部分は、第一部のロビンソン・クルーソーの生活においてもあって、普通はいかにも近代ブルジョワ的で即物的なリアリズムとかいわれるわけですが、私にはほとんどリアリズムの範疇を逸脱しているようにしか思えません。ロビンソン・クルーソーの生活の部分はまだ、彼が色々と記録していたという記述もあるので納得できますが、入植者達の戦争については、数年前に起こった事件の聞き書きなわけで、そんな詳細が分かろうはずもない。

私が思うに、ダニエル・デフォーはリアリズムを逸脱しているなどということは百も承知で、あるいは歯牙にもかけずに詳細な描写をあえて行っている。聞き書きのために細かいことなど分かるはずもないが、その話から激しく想像力をかきたてられ、"つい"詳細を想像してしまった、そういう想像力の、語りのエネルギーみたいなものを感じる。そして私は、そういう想像力の機能こそが実はリアリズムの本質なのではないかと思うのです。

この辺の話はアリストテレス以来まあ色々あるわけで、私も結論めいたことはそんなに言えません。近代小説におけるリアリズムという話をする場合、普通は写実主義、つまり現実をありのままに客観的に書くリアリズムから心理主義、それぞれのの人によって世界の見え方が変わるという主観的なリアリズムに19世紀から20世紀にかけて位相が移ったといわれるし、概ねその通りのわけですが、その二つの側面というのは、最初から常に意識されている問題でもあった、と。とりあえずこの辺でおしまい。

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2006年01月05日

ジェイン・オースティンの魅力とエロゲーヒロインの退屈さ

何か最近、ジェイン・オースティンの『エマ』の新しい翻訳が出ていたので、だらだら読んでいます。優れた小説を書く作家はまあ沢山いるわけですが、こと面白さという点に関してはジェーン・オースティンを超える作家はほとんどいないでしょう。そのように思ってしまうぐらい、彼女の作品はどれも抜群に面白い。

ジェイン・オースティンの小説は大体パターンが決まっていて、舞台は田舎で、若い女の子がいて、色恋沙汰がごたごたあって、最後には結婚する。彼女の有名な言葉に、「田舎の二つか三つの家族が小説の題材としては最適だ」というのがありますが、作品はどれもその原則に沿っている。頭の悪い批評家の類が、狭い人間関係を扱っている作品を社会性がないとかいって批判したりしますし、まあエロゲーなんかでもそのような批判がこちらもやはり頭のおかしい類からなされたりします。しかし、ジェイン・オースティンを読めば真実は一目瞭然で、的確な人物造型と心理描写、そしてしっかりした筋立てと抜群のユーモアがあれば、まあ、何を書いても面白くなる。逆に、それらのどれもなければ、どんな設定を持ってこようが、糞以外の何にもならない。

『エマ』のヒロインはエマという甘やかされた女の子なわけですが、彼女の造型と心理描写は非常によく出来ています。利発で父親想いな様子、年下の友人への優越感やライバルへの敵愾心、そしていかにも青二才らしい軽率さと素直さ。それらをすべてありのままに書き出しながら、彼女が人間的に成長していく様子を描いている。

ジェイン・オースティンの書くヒロインと比べれば、エロゲに出てくるヒロインたちの造型はやはり平板な感じがしますね。エロゲではヒロインはご都合主義の塊でファンタジーな感じですが、ジェイン・オースティンのヒロインは現実的なエッジを立てれば立てるほどに魅力的になる。まあ、逆に彼女の書く男の姿はかなりステレオタイプなんですが。

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2005年12月25日

二元論の超克と隠蔽された「他者」

物語の読み方/二元論について、とその続き物語の読み方/二元論の超克/数字は2よりも3がいい!!という記事。私はガノタではないので、まあ、テキトーな話を。

19世紀の小説をある程度読んで驚くというか疑問に思うことのひとつに、19世紀の小説にはやけに姦通、つまり不倫を扱った小説が多いというのがあります。19世紀小説の最高傑作と目されるフロベールの『ボヴァリー夫人』や『感情教育』がそうですし、スタンダールの『赤と黒』も、トルストイの『アンナ・カレーニナ』も、もちろんホーソーンの『緋文字』もそうです。その変種というか亜種として、ドストエフスキーの『白痴』みたいな三角関係の小説やヘンリー・ジェイムズの『ある婦人の肖像』みたいな寝取られ小説がある。

19世紀の重要な作家がなぜここまで三角関係に拘るのか、というのには、一般にいくつかの理由が考えられています。たとえば、単純明快、他人のスキャンダルほど面白いものはない、という理由。現代のワイドショーを見ても一目瞭然であるように、人間は他人の恋愛関係のトラブルの話は大好きなので、そのような主題を扱った作品が受ける、というのがある。そして、三角関係というのは、互いの心理を想像しては懊悩するものですから、登場人物の心理を事細かに分析するには格好の素材でもあります。このへんはヘンリー・ジェイムズが得意としたところで、彼は不安になり懊悩する寝取られ男の心理を事細かに分析しています。

もうひとつ重要な理由として、主人公―ヒロイン―ライバルという三者の関係が、19世紀市民社会の縮図であるということが挙げられます。「私」と「あなた」の関係に社会を代表する他者である「ライバル」が組み込まれた関係性。このバリエーションはもちろん『ロミオとジュリエット』のような作品にも見られますが、三角関係においては、三者の関係は不安定で流動的なものです。一概に社会が恋愛を邪魔をする敵対的な存在であるとはいえず、その立場は互いを相対化するものです。まあ、ただの恋敵ですからね、結局。

このように、姦通小説というのは良くも悪くも近代的な小説であるわけですが、少し違った視点から見てみると、そのような作品にも二元論が隠れていることが分かります。例えば、19世紀市民社会に典型的なpublicとprivateの使い分け。社会的にはpublicな存在で、家庭はprivateだ、というわけですが、これが女性の抑圧を生み出すと例えばフェミニストなんかは言う。publicな領域では皆平等ですが、一方でprivateな領域では家父長制的な女性差別むき出しだ、というわけです。このような、視点から19世紀小説を男同士の共犯関係として読んだのが、なぜか今年ネット界隈でよく見かけたセジウィックのホモソーシャルの議論だったりする、と。

あるいは、西欧市民社会の外の社会についてはどう考えているのか、という問題。19世紀はもちろん帝国主義バリバリの時代ですから、異民族なんか差別しまくりです。小説においても、彼らはステレオタイプ化されて表象される。これが、サイードのいうところのオリエンタリズムというやつですね。多元論も切り口を変えると二元論に早変わり。それならば、いかにも二元論的な作品も切り口を変えれば多元論的に読めるとか何とか。

まあ、あらゆる人に目配せするのは原理的に不可能ですから、この手の他者というのはいくらでもわんさか出てきりがない。それならばどうするのかというのは、なかなか微妙な問題です。

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2005年12月19日

サヴァンと記憶の構造について

x51.orgの九千冊の本を暗記する男 ― サヴァン症候群とはという記事。サヴァンというのは、精神とか重軽度の障害がありつつも、記憶力やら絵画やらに人並みはずれた才能を発揮するような人のことですね。確か、10年くらい前に、サヴァンに関する本を読んだことがありますが、その本ではサヴァンは記憶力が優れているのではなくて、むしろ忘れる能力が欠如しているのだ、とか書いてましたね。一日に起こることをすべてそのまま覚えていても意味がないので、普通はテキトーにかいつまんであとは忘れるわけですが、サヴァンには欠損があるので忘れることが出来ない。だからすべて覚えたまま、ということになる。まあ、実際どうなのかは、私は知りませんが。

以前にも何回か紹介したことがありますが、受容美学の代表的な理論家にヴォルフガング・イーザーという人がいます。彼の代表的な著作に『行為としての読書』というのがある。そこで、彼は19世紀的な写実小説についてこういうようなことを書いています。19世紀的な小説というのは、物語の筋があり、そしてメッセージがこめられている。そのようなメッセージや筋立てというのは、「生活から異質性を消去し、意味を抽出する」ことによって成り立っている。つまり、普通の人間の生活を朝から晩まで逐一書き込んでも話らしい話にはならないので、話にするためにはその中から重要なところだけ取り出して纏め上げる必要がある、ということです。そして、上のサヴァンの話で述べたように、それは人間の「記憶構造のパラダイム」でもある。人間の記憶も、一日の生活の中から一部を取り出してつなぎ合わせることで、ひとつの記憶のまとまりとして成立している。

イーザーは『ユリシーズ』を例に出して議論していますが、逆に、一日に起こったことをどんなくだらないことでも逐一書き込めば、それはテクストの準拠枠を読者に意識させることになる、と。

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2005年12月05日

『嵐が丘』という奇怪な小説について

『嵐が丘』を最近ずっと読んでて、まあ読み終えたんですが、かなり変てこな小説です。小説は主人公の若い男が田舎の屋敷を借りに嵐が丘の屋敷に来たところから始まるんですが、この館の主人がどうにも陰気臭い。それで、まあ、何かひどいやつだという感じなんですが、後日、また嵐が丘を訪れたところ、何かその陰気臭い男に家族がいて主人公のことを気にせず口論を始める、しかも因縁があるらしい。その日は天気が悪いとか何とかで嵐が丘の屋敷に泊まることになって、そこで何か若い女の書いた日記を発見し、ついにはその幽霊を見ることになる。そのことを話すと陰気臭い男は泣き喚き始めるので、ああ、この女の幽霊は死んだ恋人か何かなんだろう、とか思う。

ここまで、わずか50ページ。注目したいのは、この陰気な主人、ヒースクリフという人物の造型です。登場人物のイメージが、話が進むことによって変化するということは、普通にあります。何か、かわいらしい女の子だと思っていたら、何故か糸鋸を持っていたりとか、澄ましたお嬢様だと思ったら乱暴な小悪魔だったとか。読者に与える情報を小出しにすることで、登場人物のイメージが操作される。ツンデレとかもまあ、そうですが、そのくらいの単純な印象の操作ぐらいは、どんな作家でもやりますし、エロゲーライターの水準でも普通に伏線を張ったり不幸自慢させたりするわけです。しかし、このエミリ・ブロンテの仕事はちょっと異常。たった50ページの間で、ヒースクリフの印象が細かく弄られ、改定され、操作されている。そして、このあとには、いわゆる「信頼できない語り手」であるネリーが出てくるわけですよ。

impression、まあ、日本語では普通に印象、ですが、それの意味というのにひどく自覚的というか意識的な感じがします。この辺の問題は、もちろん現代小説でも重要な主題になっていて、例えばロブ=グリエなんかは一人の人間を一人の人間として一貫したものとして同定させないように、物語を断片化させたりするわけですが、こういう風なやりかたをする作家はあまりいないのではないかと。

まあ、小説としても、『嵐が丘』はべらぼうに面白い。ゴシックの影響がかなり強くあります。

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2005年11月23日

殺しても殺してもよみがえってくる「作者」

作家―作品―読者の関係ということを考える場合、どこまで時代をさかのぼって書き始めればいいのかよく分からないとか、まあ色々あります。

とりあえず、中世ぐらいのヨーロッパにまでさかのぼってみましょう。このころは、作品というのは、社会的・宗教的な文脈で評価されていました。典型的なのは宗教画ですが、この作品は聖書の何とかのエピソードのキリストのステキさを上手く伝えている、とかまあそういう感じです。宗教・あるいは道徳とかそういう社会の構成員に共有されているイデオロギーがあって、その評価軸に沿って作品が評価される。社会・宗教的なコミュニティーによって芸術の正当性が担保されるのが、まあこの時代。

近代は個人主義ということで、そのような社会的・宗教的な価値観から芸術の価値観を自立させることが目指されました。ロマン主義の芸術観なんかは分かりやすいんですが、天才の作者が何か普遍的な真理みたいなものを発見して、それを作品という形で表現する。読者は作品を読むことで、作者が発見した普遍的な真理に至ろうとする。この場合、作品の評価は表現されていると目される主題によってなされます。この作品に表現されている人間は自然に比べると卑小だという主題はステキだ、とかそんな感じ。この場合、その主題の正当性は社会とか宗教を担保にしたりはしません。評価の基準は、芸術的な価値判断というやつです。ロマン主義とかその手の評価するための体系としてのイデオロギーがあって、それに基づいて評価する。

んで、現代。電波系レビュアーのためのLiterary Theory入門にも書きましたが、とりあえず、作者とやらはウザイので死ねということで、作品の評価を作者から自立させることになりました。近代的な芸術観だと、評価されているのはあくまで作者の思想とか美意識であって、作品そのものではない。ニュークリティシズムの人なんかは、「作者の意図を考慮する誤謬」とか何とかいって、作品を自立的なものとして評価するべきだ、といい始めます。

この、作者の意図なんか知ったことか、という考え方は、何となく乱暴っぽい雰囲気はありますが、それなりに正当性はあります。作者なんかの言うことは自己弁護ばかりで当てにならないし、作者の意図に読み方を決められてたまるか、というのもまああるんですが、それよりも問題なのは、作者の発言、というのはかなり重要だということです。何か当たり前のことを書いていますが、作者がこの作品の主題は不倫セックスは気持ちいいということだ、と言ったら、何となくそうに違いない、とか思ってしまう。作者は「作者である」というだけで作品に対して特権的に大きな影響力を持つわけです。だって、その作品を書いたのは作者ですから。あと、作者が自分の作品について最もよく知っているとは限らないというのもあります。フロイトの精神分析なんかは有名ですが、作者の意図していないもの、抑圧された欲望とか、が作品に表現されているというのは、まああるでしょう。

ということで、作者の意図なんか気にしないことにして、作品それ自体を分析しましょう、というのが基本になります。構造分析とかの流れはまあ基本的にこんな感じなんですが、それではやっぱり駄目なんじゃないか知らん、というか、そんなこと出来ないとか思う人も当然いる。

ドイツには、20世紀前半にはフッサールというオッサンがいて、現象学をやってたんですが、その流れで解釈学・受容美学というのが出てきます。解釈学の代表的な理論家であるガダマーは作者も読者も歴史的・社会的条件によって限定されているということを重視します。考えてみれば、というか考えなくても当たり前ですが、作者はある時代のある場所で作品を書く、そして読者はそれをある時代のある場所で読む。読者はそのときに自分の置かれている歴史的・社会的な条件のもたらす先入観の下でしかテクストを読むことが出来ない。まあ、ソ連崩壊後の今になって、いかにもマルクス主義っぽい文章を読むとアホっぽく見えるとか、そういう感じです。普通は、そういう先入観というのは唾棄すべきもので、先入観を取り除いて作品を読まなければならないとかいうわけですが、ガダマーはそうは言わない。先入観を持って作品を読む。そして、読者の先入観を覆すように作品が展開し、結果として読者の意識が更新される。こういうのを「期待の地平線」が更新されるとか呼んだりするんですが、要するに、作品を読み進むことで、読者の意識が進歩する、と。その働きを重視した。「期待の地平線」を更新するような作品がいわゆる文学であり、「期待の地平線」の枠に沿った作品がエンタテイメント、「期待の地平線」の枠内にある作品が糞。教養主義的というか糞真面目なドイツ人といった感じです。まあ、あまり意味不明に予想外の展開をしても読者はついていけませんから、読者の関心をひきつけるような仕掛けが必要。んで、この考え方から糞真面目さを抜いたらロラン・バルトの「テクストの快楽」になるわけです。

受容美学の代表的な理論家はイーザーとかいう人ですが、彼はテクストの内部に変数として作者と読者を導入します。イーザーは読者は自分の好き勝手にテクストを解釈することは、実は出来ないといいました。読者はテクストによってあらかじめ決められている読み筋をたどることでしか、テクストを読み進むことが出来ない。どのように書かれているかによって、どのように読むかが決まる。んで、どのように読むべきか、読者の視点を構造化するのは、もちろんテクストの書き手である作者。

私の意見を簡単に書いてしまうと、客観的な立場でテクストだけを取り出して読むことが出来る、とかいう考え方は、結局、時空を超越した普遍的な関係性に裏打ちされたロマン主義的な作者―読者観の焼き直し、というか亡霊なのではないでしょうかね。特権的な貴族主義はテリー・イーグルトンも指摘しているように、ロマン主義にもニュー・クリティシズムにも見出せる。そのへんは、結局、回避できない問題なのでしょう。なので、結局はテクストそのものも色々と相対化しつつ距離をとってテキトーに読むしかない、ということですかね。微妙な問題はまあありますが。

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2005年11月12日

叙事詩・ロマンス・小説

最近は温故知新でもないですが、ホメロスが書いたということになっている『イリアス』を読んでいます。内容的には誰でも知っているように、トロイ戦争を舞台とした作品で、英雄連中がひたすらに戦闘を続け、殺し合いまくり、ゼウスをはじめとする神々がちょっかいを出したり出さなかったりする、という話。『オデュッセイア』は学生のころに読んでいたので、似たようなものだろうとか思ってはいたんですが、これが全然違う。『イリアス』には日常的な場面は全然なくて、ひたすら戦闘、槍で頭を貫いて脳漿が撒き散らされたとか、矢が御者の胸に突き刺さって馬から転落して死んだとか、そんな場面が延々と続く。

『イリアス』に代表されるような叙事詩の主人公は、基本的に英雄です。といっても、誰が『イリアス』の主人公なのか、アキレウスか、ヘクトルか、アガメムノンか、とか、まあありますが、それはそれとして、叙事詩の登場人物は半分神様だったりする人知を越える英雄ばかりです。それからだいぶ時代が下って、中世ぐらいになると、そんな英雄なんか当然どこにもいないので、もう少し身近なキャラを主人公にしましょう、ということで、騎士道小説などのロマンスが生まれます。これらの作品の主題は冒険と恋愛。かっこいい騎士が冒険して、いいところの貴婦人に愛をささやくとか、そういう感じ。

さらに時代が下ると、ロマンスに出てくるような騎士とか恋愛譚なんかどこにもありはしない、ということで、馬鹿にするような擦れた作家が出てくる。セルバンテスとか、ジェーン・オースティンですね。これがいわゆる近代小説というやつです。近代小説ではかっこいい冒険などは扱われず、現実社会とそこで生活する人間の物語が主題となる。ただ、それでもどこにでもいる普通のオッサンとか主人公にしてもつまらないので、かわいい女の子が不倫をしたり娼婦になったりするわけです。

こうしてみてみると、登場人物の人間の程度がどんどん下がっているというか下世話になっているというかろくでなしになっているといった感じはします。

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2005年10月13日

ノーベル文学賞ハロルド・ピンターが受賞

ようやく発表がありましたね、ノーベル文学賞。イギリスの前衛的な劇作家、ハロルド・ピンターが受賞です。いわゆる不条理劇の代表的な作家で、現代演劇に関心がある人なら普通に知ってるでしょう。というか、かなり大物です。最近のノーベル賞はクッツェーとかナイポールとか英語作家が多いですが、イングランド出身の作家は83年のゴールディング以来なんですね……ちなみに、私の予想はユダヤ人という点だけ当たりました。

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2005年10月12日

本質主義と構造主義

物事の考え方には、大雑把に言って二通りの考え方があります、多分。ひとつは、個々の事物に本質が内在するという考え方、もうひとつは、本質などどこにも存在しない、存在するのは関係性だけだという考え方。

この考え方の対立は結構昔からあって、古代インドなんかでは、ウパニシャッド哲学の人とかは、物事には普遍的なアートマン=自我が内在するとか言ってました。んで、そんなものない、と言ったのがまあ、仏教だったわけですね。すべての物事は原因と結果が網の目のように相互に依存することによって成立していて、常に変化している。まあ、それを仏教では縁起と呼ぶわけですが、そのような常に変化するものは普遍的じゃ全然ないわけだからそこに本質なんか存在しない。むしろ、本質など存在しないから、物質的な現象でありうるのだ、というわけです、「般若心経」風に言えば。すべての物質は、本質の欠如によって条件付けられている。これがいわゆる「空」というやつです。まあ、それでも個々の人間は自分には自由意志があると思ってますから、この世は一切皆苦。

時代と場所をずっとすっ飛ばしで、近代のヨーロッパでは、「我思うゆえに我あり」とか言った人がいました。まあ、デカルトですね。これは、個人の自意識の独立性の主張で、本質論的です。んで、このインデペンデントな個人の契約関係によって国家が成立する、というのが、現代日本もそうですが、近代国家の基本的なお約束と言うことになっています。しかし、ソシュールとかいう言語学者は、すべての言葉は差異によってのみ条件付けられている、とか主張します。つまり、日本語では猫とか犬とか不思議生物に名前を付けているけれど、その名付けの対応関係は恣意的なものでしかない。その後の構造主義とかのたまった連中は個人の欲望は権力とか国家みたいなシステムによってコントロールされているどころか、そもそも人間の自由意志なるものは社会的な構築物に過ぎないとか何とかいうわけです。

なぜこんな話をするかというと、最近フーコーの『監獄の誕生』を読んだので自慢したかったとかではなくて、『夢幻廻廊』(Black Cyc)が扱っているのがその辺の主題であるからです。システムによって個人的な欲望がコントロールされるというのは、現代文学ではまあ、トマス・ピンチョンの『重力の虹』とか、スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』とか、もちろんこの作品の直接の下敷きになっている沼正三の『家畜人ヤプー』とかで扱われています。こういう主題は権力について書きやすい国家とか、権力性とその転倒を要諦とするエロティシズムなんかと相性がよいので、よく利用される。『夢幻廻廊』は、館とそのほかの社会ということで、スケール的にはちょっとしょぼいですが、館という箱庭的な世界を準備することで、かなり極端というか、なかなか面白いことになってます。

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2005年10月10日

ノーベル文学賞発表延期

何かまだ発表されてませんね、ノーベル文学賞。今週の木曜日にくるんじゃないかということ。何か、ラシュディみたいな変な作家でも候補になってるんでしょうか。

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2005年10月05日

「大江健三郎賞」創設

「大江健三郎賞」講談社が創設という記事。一瞬気でも狂ったのかとか思ったんですが、まあ、もういい年なのによくやります。つーか、日本でまともに読むに耐える小説を書いてる唯一の作家なんだから、変なことをしてる暇があれば小説を書いてほしいんですが。そういえば、大江の新しい小説出てますね。古義人シリーズの三冊目『さようなら、私の本よ!』という作品。『群像』に今年の初めぐらいに載ってたやつです。

ノーベル文学賞の発表が多分明日なので、一応予想をしておきましょう。どうせ、あたらないですが。今年ぐらいそろそろアメリカ枠なのではないかということで、ユダヤ系アメリカ人作家のフィリップ・ロスがくると予想。作者自身をモデルとしたような、ユダヤ系の知識人を主人公とした作品をよく書く人です。

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2005年09月11日

プラトンかアリストテレスか、選べ。

何か最近某界隈のコミュニケーションスキル云々の話を読んでてもやもやした気分になってたんですが、理由が分かりました。きっかけは「間違っているけどわかりやすい」 vs 「正しいけどわかりにくい」 という記事。

プラトンに『ゴルギアス』という本があります。弁論術の教師であるゴルギアスに対して、ソクラテスがいちゃもんをつける、という、まあプラトンおなじみのパターン。プラトン=ソクラテスはこう主張する。弁論術というのは、自分の扱っている事柄について専門的な知識もろくに知らないのに、口先だけで民衆を説得しようとする連中である。んで、そのために「真実である」ことよりも「真実らしさ」を重視するので、弁論術は、技術なんかでは全くなく、大衆に迎合することへの慣れを磨いているにすぎない、と。それは、単に大衆の快楽に奉仕しているだけで、大衆を正しいことに導くことにはならない。いかにも「哲人政治」のプラトン、といった感じ。この本には、道徳的に正しいかどうかなんかどうでもいいから、口先だけで独裁者になってやるぜ、とか主張するモラル崩壊気味のポロスという若者とか、世界は弱肉強食なんだから奴隷の道徳なんか捨ててしまって欲望の赴くままに生きたらいい、とか主張するニーチェっぽいカリクレスという政治家が出てくるので、今読んでもかなり面白いです。

それに対して、アリストテレスは、結局大衆なんか馬鹿なんだから、こちらが合わせるしかないでしょ、ということで『弁論術』という本を書きます。アリストテレスは、プラトンにはただの「慣れ」としてしか評価されなかった弁論の技術を詳細に分析し定式化することで、ひとつの技術として成立させます。説得推論についての議論において、

……大衆の前では、教養豊かな弁論家よりも教養に欠ける弁論家のほうが説得力を持つ……というのは、教養豊かな人々は普遍的で一般性のあることを述べるが、教養のない人は、自分が経験的に知っていることに基づいて、つまり、聴き手にとって卑近なことを、語るからである。

とか指摘していて、正直ちょっとぶっちゃけすぎですが、アリストテレスらしい非常に明晰な議論なので、まあ、読んでみるとよろしいかと。

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2005年09月09日

電波系レビュアーのためのLiterary Theory入門

レビューを書いて電波をゆんゆん飛ばすためには文学理論が有効です。何も考えずにテキトーに思いついたことを書きなぐるよりも、理屈をつけたほうがまともっぽく見えます。廣野由美子は『批評理論入門』の序文において

(理論を理解しつつそれを用いて:引用者注)小説を読む力を研ぎすませてゆくことによって、私たちの印象はさらに鮮やかなものへ、直観はさらに鋭いものへと磨かれてゆくだろう。

と述べていますが、これはまあその通りでしょう。しかし残念ながら、当の『批評理論入門』は、「間テクスト性」の項とか用語解説の間違いが目立つし、『フランケンシュタイン』を使った理論の実践も薄っぺらくて詰まらないという体たらくなので、あまりお勧めできない代物です。

とりあえず入門書としてお勧めなのは定番ですが、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』とその実践編『クラリッサの凌辱』でしょうかね。超長編書簡体小説『クラリッサ』の翻訳はほとんど入手不可能なので、後者はいろいろつらいかもしれません。原文なら一応グーテンベルクのe-textにあります。あとは日本の若手の研究者たちが編纂した『読むための理論』という批評用語の簡単な解説を集めたものがありますが、これは解説がいかんせん短い。巻末についている文献紹介は非常に有用です。ただ、こちらは入手難。

web上の解説では比較・理論文学入門に西田谷洋の講義メモなどありますが、やや偏見がキツい感じ。stydy notesに佐藤啓介によるニュークリティシズムから読者反応批評までの文学理論の解説があります。

私なりに簡単に流れをまとめると、20世紀の初めのころにニュークリティシズムというのが出てきます。主張としては、従来の批評を「意図の誤謬」・「情動の誤謬」として批判し、テクストの独立性を重視する。つまり、テクストを作者の意図とか歴史的な条件に還元していたとして従来の批評を批判します。そして、テクストそのものを分析することを重視したわけです。ただ、彼らは難しいものほどいいものだ、といった感じで、イギリスの形而上派詩人とか『トリストラム・シャンディ』なんかばっかりを取り上げた上に、言葉や比喩のレベルに強く反応しすぎたために文脈の理解が疎かで、小説、特に長編小説の分析などではたいした成果が残せませんでした。

大体同じころ、ロシアでフォルマリストとかいう人たちが活動していました。彼らはソシュールなんかの言語学の成果を利用し、テクストの構造分析に先鞭をつけました。習慣的な行為や感覚を真新しい印象を持って感じさせる文学テクストの機能を「異化」・「明視」という概念を使って定式化します。もちろん、文学テクストのそのような機能は、オスカー・ワイルドの有名な警句「自然は芸術を模倣する」を引くまでもなくよく知られていました。しかし、フォルマリストの独創は、それを芸術の最も本質的な機能としてすえたことです。ただ、彼らの限界もそこにあって、詩とか前衛的な作品ならともかく、普通の小説なんかは「異化」するような文章ばかりで書かれているわけではないし、というか、そんな表現ばかりで書かれたら読みづらくてしょうがない。結局、彼らの友達も難解な詩とか『トリストラム・シャンディ』でした。

フォルマリストなんかの影響もあり、フランスで構造主義というやつが生まれます。これは、作品の形式とか構造に注目する立場で、内容の分析はそっちのけにして、類型の分類とか一般的な構造の探求とかやってました。同時代の言語学の流れ、生成文法とかと問題意識を共有しています。。ニュークリティシズムと異なる点としては、この人たちは文学テクストに固執しなかったのですね。どんなテクストでも取り上げて、普遍的な深層構造とやらを探そうとしました。が、当然のことながら、そのような試みは挫折します。

構造主義に影響を与えたものとして、精神分析を抜かすわけには行かないでしょう。代表選手は言うまでもなくフロイトですね。彼は、意識の奥に無意識という人間の意識を規定している深層構造を「発見」し、その解明に乗り出します。ユングは無意識を社会的に普遍的な集団的無意識にまで拡張しますが、かなり電波入ってます。ラカンは構造主義世代ということで、無意識に言語というファクターを加え、無意識はひとつの言語として構造化されている、と主張する。まあ、どちらにしても電波です。

構造分析の流れから普遍的な構造の探求という目的が脱落したところにナラトロジーが誕生します。テクストの独立性とその分析を重視する立場は相変わらずですが、テクストにより作者と読者が含意されている、という立場を取ります。つまり、テクストを読むという行為は、読者の脳内で「含意された作者」が「含意された読者」に語りかけるという現象であり、そのありかたがテクストによりあらかじめ構造的に規定されている、と考える。そして、語り方なんかが重視される。何がどのような順序で誰によって何度語られるのか、そして何が語られないのか、というわけです。

それをさらに極端にすると、受容美学とか読者反応批評とかいうやつになります。この立場だと、テクストは読者が作り上げるものだ、ということになる。テクストによって読者像があらかじめ含意されているというのは変わりませんが、読者・読書行為に強い関心を寄せました。読者は受動的にテクストを受け取るのではなく、積極的に意味を生産する主体となります。

しかし、ナラトロジー・受容美学には大きな欠点があります。これは、読者の脳内で起こっている現象のみに注目した議論であり、実際の作者とか読者は無視されます。当然のことですが、作品を実際に書くのは実在の作者ですし、読んで面白いとか思うのは実在の読者なわけです。さらに、文学の歴史性というか連続性というのも無視されます。作品はそのときそのときの読者の脳内にしか存在しないことになりますから、一人の作者の異なる作品を同じ作者の作品として認知できない。

そこで、テクストの社会的な影響というか、テクストを社会・歴史の網の目のひとつの結節点として捉える立場が出てきます。歴史的なコンテクストから読めば新歴史主義ですし、文化と権力性のコンテクストから読めばカルチュラル・スタディーズ、旧植民地圏と宗主国のコンテクストから読めばポストコロニアルになる、と。ま、フェミニズムとかジェンダーとかもこの領域です。これらの立場では、文学テクストは言ってみれば資料のひとつみたいなものです。語りたいことの傍証として文学テクストを使う。そのため、解釈は時に一面的であり、恣意的ですらあります。

いわゆるポスト構造主義も似たようなものではありますが、彼らはその呼び方が示すように構造主義への反省から考え方を進めています。構造主義はその性質上、基本的に構造を固定的なもの、あらかじめ決まった不変のもの、と考えますが、ポスト構造主義は構造は生成されたり変動するものである、ということを重視しました。まあ、歴史的な視点など導入して相対化したとでも言えばいいんでしょうか。それで、文学の領域においても、テクストにおいて階層秩序的な二項対立が解体されていることを指摘して脱構築だとか言ってみたり、「間テクスト性」とか言って、テクストをあらゆる文化的で時に異質な要素の引用の織物であるとか主張する、と。

とりあえず、こんな感じですかね。かなり強引にまとめているところもありますが、概ね間違ってないと信じたいです。まあ、間違っていても気にしないでください。

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2005年08月27日

東洋人と西洋人では物の見方が違うらしい

hotwiredに来てましたが、研究報告「東洋人と西洋人は世界の見方が異なる」。まあ、アホ記事ですな。怪しすぎるぞ心理学の文化研究! という突っ込みアリ。かなり笑える突っ込みなので読む価値大です。

それだけだとただのアホ記事という話なんですが、ちょっと関連しそうな話。最近、平凡社ライブラリから出ていた『レヴィ=ストロース講義』を読んでます。何か、1986年に東京で行った講演が収録されている。その第3講、文化の多様性の議論において、『人類学と遺伝学の「新たな同盟」』ということが語られている。簡単に説明すると、文化的な慣習などによって、遺伝子の交換の度合いが決定されるので、文化によって遺伝子に差異が生み出される。んで、

それぞれの文化が遺伝子的適性を選択し、それらの適性が文化にフィードバックして文化の方向づけに影響を及ぼす

ということになる、という話。まあ、だからといって特に落ちもなく終了。

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